ポーランド

私は以前にポーランドに一年間住んでいた。
子供の頃から海外に住む運命に時々あい、時々数年日本にいないことがある。
そうするとその期間の日本の情報がぽっかりあいていて、その時に流行ったアイドルやドラマや映画などの情報が全くわからないことがある。同じ年代の人と話していても、そのアイドル全く知らない、とか言うとびっくりされることがある。
 ポーランドには一年ほど住んでいた。ポーランドのワルシャワ音楽院に一年間通った。
ショパンコンクールの副審査員などを勤めていた前ワルシャワ音楽院学長であられるカジミエール・ギェルジョット先生のもとでピアノを習っていた。本当にそんなところに通っていたのか今となっては謎な気がしないでもない。きっとその後色んな事がありすぎて、もう遠い記憶と化してしまった。
 いや、その後色んな事があって、というのは嘘かもしれない。むしろ、ワルシャワでの生活苦が私にそれを忘れさせる方向に促してるのかもしれない。なので、こうしてその事を書こうというのは意識の奥に逃げようとする記憶をほじくり返して、潜在意識にその生活苦をしみこませないためには良い作業なのだ。
 ポーランドの日々、私はカレンダーに日本に帰国する日を赤で丸をつけて、帰国まであと残り何日、と帰国の日を指折り数えていた。それくらい死ぬほど早く帰りたかったのだ。
 ポーランドの朝は水汲みから始まる。毎朝、その日に必要な水を汲みに行かなくてはならない。水汲み場までは、歩いて5分はかかったと思う。 最近のポーランドはきっと民主化も進みだいぶ花いでいるようだが、私が行った当時はまだ民主化されて10年もしないころだった。町は共産国独特の暗い街並みである。 もともとポーランドの冬は長い。毎日毎日どんより曇っていて、晴れるということがない。そのどんよりした空の下には共産国にしかないような小学校の校舎のような灰色のコンクリートのアパートが建ち並ぶ。その中で、マイナス10度、20度という極寒のなかを水汲みのために並んだ人々の列に一緒に並んでいると、なんだか、自分が戦争時代にでもトリップしてしまったのではないか、というような錯覚に陥る。 
 私は水汲みのために車輪の大きなキャリーを使用していた。それは日本で買ったもので、ちょっとした段差なら楽々に引き上げられるような車輪の大きなものだった。水汲みに並んでいると、ポーランド人に囲まれて、「そのキャリーはどこで買ったんだ!」と言ってくる。「こんな良いやつはみたことがない!」 そう、みんな車輪の小さなキャリーを引いてくるので、ちょっとした段差のところで苦労していた。そしてポーランドには車輪の大きなキャリーはどこにも売っていなかった。 「私はこれは日本で買ったんだ。」というとみんながとても残念そうな顔をする。とても申し訳ない感じがした。毎日毎日のこの水汲み作業が少しでも楽になる方法があるなら藁をもつかみたいほどだ。気持ちが痛いほどわかる。
 野菜はだいたい近所の野菜屋さんで買う。それもいつも並んで買う。共産国は並ぶのが基本だ。とにかく並んでじっと自分の順番がくるまで待つしかない。そして自分の順番になったら、店の奥にならぶ野菜を指さしながら、それを何キロくれとか、500グラムくれとか、何本くれ、とか言って出してもらうのだ。当時完全なベジタリアンだった私は、この野菜屋が命綱のようなものだった。だが、ポーランドの冬の野菜は、人参か玉ねぎかジャガイモくらいしかないのだ。売ってるお米は死ぬほどまずく、とても食べられそうになかった。私は毎日のように日本に帰ったら納豆が食べたいなぁ、とかノリ巻きが食べたいなぁとか、そんなことばかり考えていた。
 ピアノの練習はただただ必死だった。ギェル先生は優しかったので、私は甘えていた。時々私を遠足に連れて行ってあげる、といって車であちこち連れて行ってくれたりした。夏休みの間は「家に練習においで」と言ってくれて、先生の自宅に練習に行った。そうすると大量のケーキを用意して待っててくれるのだ。先生のお宅にはワルシャワから電車にのって30分くらいだった。電車の旅行に行くみたいで楽しかった。
 私はほとんど誰とも日本人と仲良くすることがなかったので、実に孤独だった。なぜ仲良くすることがなかったか、というと、要は自分がベジタリアンであることが大きな原因だった。ベジタリアンは外食がほとんどできないのだ。人とつるんで食事に行くことがない私には、日本人の友達ができようがなかった。
 そのかわり、わたしは週に二度、ポーランド人のあつまる怪しい集会に出席していた。それはポーランドに住むサイババ信者の集会だった。ポーランドでインドのグルの集会があるということ自体、なんだかそれはとても謎すぎるし、その謎すぎる集会に私が参加してたのも謎すぎる。この謎の集会は非公開で行われていたのに、私がそれを見つけ出したのもすごい。それは私がたまたまインドに行った時に出会ったポーランド人から聞きだした情報をもとに、かなり理解不能な地図をもとに、そこにたどり着いたのだった。まさに奇跡と言っていただきたい。
ブルースモーエンがポーランドに行ってすごいエライ信念体系の強い人にであって苦労?したとか?いう話があるみたいだが、ポーランド人は信仰心は厚いが、実にシンプルで柔軟な面がある。だからこそブルースモーエンも呼ばれたのだと思う。私はそのブルースモーエンをポーランドに呼んだ人の中に私の知り合いがいる気がしている。たぶんマックスはその中にいると思う。ポーランドから帰国してからもしばらく手紙のやりとりをしていたが、今はどうしているかしらない。なんだか新しい奥さんをもらったとかいう手紙が最後だった気がする。
 今、このことを書いてたら、マックスの匂いがしてきたので、多分、私が今書いてることは本当だと思う。つまりマックスはそのブルースの集会に出てるということだ。マックスはヨーロッパ各地のニューエイジとかスピリチュアルな何かと繋がっていた。ポーランドでブルースを呼ぶなんてことをやってのけるのは、あのマックスしかいないのだ。

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