グルジェフ

グルジェフは言う。
誰かを助けたいと言っても、まずは自分の面倒をみられるようにならなければいけない、と。
人は惰性で他者を助けるという考えや感情におぼれるのだ。
自己鍛錬するには惰性すぎ、そして、他人を助けることができると考えることが快感なのだ、と。
それは自己を知る者からすれば、不誠実な感覚であり不誠実な行為だ。
愛するか愛さないかも助けるか助けないか、ということも、
意図的に出来てはじめて価値があるのだ、とグルジェフは言う。
私はこの意見に大いに賛成するとともに感銘した。
ピアノでも野球でも意図してそれができる、というのが本当の実力だ。
なんとなくできちゃった、というのは実力ではない。
意図して上手くも弾け、意図してへたくそにも弾けなくてはいけない。
なんとなく人に優しくできる、というのは実力ではない。
グルジェフは言う。
本当に他人を助けることができる人は
意識的なエゴイストになれなければならない。意図して利己主義になれなくてはいけない。
無意識に人に優しい人は沢山いる。良い人っていっぱいいる。
でも本当に誰かを救える人は、意図して利己的にもなれるという。
それが本当の実力だ。
本当にそう思う。
本当に愛にあふれた人は、その愛や優しさが外からわからない。
私が言ってるのは、圧倒的な真の愛についてだ。
グルジェフは言う。
意識的なエゴイストだけが他人を助けることができるのだ。
今のままでは我々は何一つできない。
人はエゴイストになろうと決心はするが逆に自分の最後のシャツを与えてしまう。
あるいは最後のシャツを与える決心をしたのに、今度は逆に相手の最後のシャツをはぎとってしまう。
あるいは自分のシャツを誰かに与えようと決心はするが、実際には誰か他の人のシャツを奪って与えようとする。
そして、もし他の人がシャツを譲ろうとしないものなら腹を立ててしまう。これこそ最も頻繁に起こることだ。何にもまして、困難なことをするためには、まずやさしいことができるようにならなければならない。
一番難しいことから始めるのは無理だ。

なんど読み返しても深い。。
一番難しいこと、それは人を助けるということ。
やさしい事はまず、利己的である訓練をする、ということ。
すべてはそのように表裏一体。
人を助けることと人を助けないことは表裏一体であり、同じことなのだ。
意図して愛さないことができる人が、意図して本当に人を愛せるということだ。
裏側が意図的にできるならば、表側も意図的にできるということを、
グルジェフは言いたいのである。
これは訓練なのである。
正月からこんな話題で始まった、私のブログですが、
今年もよろしくお願いします。

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