意識的な信仰は自由である

意識的な愛は同じ愛を呼び起こす
感情的な愛はそれと反対の愛を呼び起こす
肉体的な愛はタイプと極性によって決まる
意識的な信仰は自由である
感情的な信仰は奴隷である
機械的な信仰は愚かさである
グルジェフ

上記はグルジェフの言葉である。
これらの言葉の中であなたが一番気になった文章はどれだろう。
私は、「意識的な信仰は自由である」という言葉だ。
今、本当にこの世には信仰というものがすたれてきた。
それは宗教による戦争や洗脳、歴史の中で繰り返す様々な事件のせいだろう。
「感情的な信仰は奴隷である。」
なんて端的な言葉だろう。
奴隷と化した信仰によって様々な事件が起きてきた。
でも、私はそれでも、自分の信仰を捨てたりしない。
それは、私に自由をもたらすからだ。
「意識的な信仰は自由である」
それは自分よりもっと大きな力があることを知ること。
高次の存在に身をゆだねることだ。
信仰は催眠だ。自己催眠だ。
催眠というとなんだかコントロールを失うもののように感じている人が多い。
そうではない。
自己催眠は、自分を強烈に意図して最高の状態に持っていくことだ。
コントロールを失うどころか、強烈なセルフコントロールなのだ。
空海でも仏陀でもラーマクリシュナでも、シュタイナーでもケイシ―でもグルジェフでも
こうした強烈な信仰によって得られるセルフコントロールを手にしていたから、
人間の到達できうる最大限の状態を引き出していたのだ。
そこに信仰のない人はいない。
絶対にいない。
意識的な信仰を持たない人は自分をコントロールできない。
誤解の無いように言っておくが、
私がいう信仰というのは、
どこかの宗教に属するものではない。
入信とかそういうことではない。
誰か、どこかの教祖を信じることではない。
グルを信じる人は、
そのグルがどんなに素晴らしくとも、
それは意識的な信仰ではない。
感情的な信仰である。
それは奴隷だ。
意識的な信仰とは
自分に内在する神を信仰することだ。
それは誰にも存在している。
自分の内なる神を信じ敬うことだ。
その時、私たちは真に自由になるだろう。

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