私は猿ではない

私は猿ではない、私は犬ではない、私は人間です、という言葉を
私は、師にならった。20代のころだ。
私は猿ではない、の猿は、激しい感情を表す。
私は犬ではない、の犬は、他人を嗅ぎまり、他人を批判する感覚を表す。
そうしたものから自己を引き離し、私は人間であるとする。
自分はもっと高尚な生き物のはずだ、とする。
師は、ほとんどの人間が猿で犬だと言い放つ。
悲しみや怒りで支配されるとき、
心の中で唱えるなら、その効果は絶大だ。
「私は猿ではない。私は犬ではない。私は人間です。」
私は、その師のことを思うと、
それだけで、嬉しい気持ちになる。
私は、まだ、心のどこかで、師に支配されているのかもしれない。
だが、別に今は、それは害ではない。
今となっては師の事も時々しか思い出さない。
その事で苦しんだりしない。
別に、放っておいていいのだ。
師から精神的に離れるのには10年かかった。
私はそれほどまでに、師のもとで修行してしまったのだ。
若く多感な時期を、祈りと瞑想に費やしすぎたのだ。
自分が自分でなくなるほどに、
染まり切ったのだ。
しかし、このままではダメなんだということが、
ある日、啓示のようにやってきた。
人は何かを学んだら、学びきったなら、
必ず離れなければならないし、
離れることができない人は、
学んでないに等しい。
しかし、自分がもう帰依者でなくなる苦しみは筆舌に尽くし難かった。
もう自分はダメなんじゃないか、存在できないのではないか、
師から離れる苦しみは、
繰り返し、繰り返し、やってきた。
その度に、私は師の教えを破った。
破ることで、自分を確認した。
教えを破っても、自分が存在していることを確認した。
何度も、何度も。
信念体系を壊した後、
壊した後の自分を信じることが必要だからだ。
「ここまでやっても大丈夫。ここまで来ても大丈夫。」
禁じられたこと、タブーを破ることで確認した。
タブーを犯しても、世界は崩壊せず、自分が存在することを、
一つ一つ確認し、そのことに10年の月日を費やした。
そして、今、師の教えの神髄だけが私に残ったように思う。
それは、どこまでも、徹底的に純粋であり続けようとするパワーのようなものだ。
そう、人は学びきったら離れることで、本当の学びを得るのだ。
私は猿ではない。私は犬ではない。私は人間です。
他にもいっぱい、真珠のような言葉が私の中で生き生きと生きている。
それは、体験と実践の中で学んだ、生きた言葉たちだ。
自分を手放して獲得した者にしかわからない、生きた言葉だと思う。

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