全体の幸福・降りてきた個人の視点

よく、我々の脳みそは数パーセントしか使われていないとか言われるが、
つまり人間の可能性はもっとあるみたいは話しだけれども、
その様子はいわば、この銀河の中で我々が地球にだけ住み知っているという様子と同じなのかもしれない。
よく、人の知覚した分だけ物質は産まれるとか、知覚した分だけ世界はできるとかいう話がある。
知覚する前は無かったのに、知覚した瞬間にそのモノができるということだ。
我々が冥王星を発見する前は、冥王星は我々の生活になんら影響を及ぼさなかったかもしれないが、
我々が認識するようになった途端に、冥王星が威力を発揮しだしたのだ。
そう考えると、この数億という星を認識したら、世界はどのように感じるのだろう。
でも、この世界にはこれだけの星が輝いているのに、われわれはその中のたった一つの小さな星、地球に住み、その周辺だけを認識しているのだ。
アステカの時代は太陽を生かすために生贄になった。太陽を守るためには、地球の寿命を延ばすためには、生贄が必要だと考えられており、生贄になることは、崇高な行為であった。生贄になったら、祭壇の上で心臓をえぐりとられ、残った肉はみなで食べる。
そして、この時代の人は、個人の幸せを追及する人はいなかった。みな、地球の寿命を延ばすために生贄になったのだ。
それは、たとえば、我々が生きるために野菜を育て、その野菜についた害虫を駆除するのと似ている。
害虫は駆除することが、人間を生かすことになる。
同じように地球を生かすために生贄が必要となれば、大きな視点からみれば、生贄になることは、良いことということになる。
しかし、この現代社会で生贄が良いことなどと思う人はいない。視点はもっと個人に降りてきており、我々はもっと個人の中での自分の中での戦いを余儀なくされているのだった。
今、国のために、地球のために生贄になる時代ではないのだ。
それにはどういう意味があるだろう。
それにはどういう意味があるだろう。
つまりは、個人一人一人の中に地球が、太陽がおちてきている時代なのだと思う。人は個人のためにいきるのか。全体のために生きるのか。全体の幸福を求めよと宮沢賢治は言ったが、そもそも全体の幸福とはどこにあるだろうね。

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