何が事実か、そして何が困ることなのか。

今日はインナープラネタリー瞑想会の水曜クラスがスタートです。
ご参加の皆様よろしくお願いします。
セルフ・アイデンティティ・ヒプノ講座で出てきた話なのですが、
子供の頃のことで、自分は覚えていないのに、
人から「あなたは〇〇ちゃんにいじめられてた」とか言われて、
それで自分はもしかしたら傷ついているのかも? なんて思うようなことって
時々ありませんか?
こういうことって、割とある話だと思うのです。
自分は酷い目にあったとは全く思ってなかったのに、
他人から「それは酷い!」とか言われて、
私は本当は酷い目に合ってたのかも!と思って、
急に怒りが込み上げるとか。
この場合、酷いと思ってなかった自分の感覚がおかしかったのか、
酷いと思ったほうがいいのか・・・・??
微妙すぎると思いません?
こういうのは性的被害なんかでもよくあります。
自分は全く性的被害にあったと思ってなかったのに、
他人からそれはセクハラだよ!とか性的被害だよ!なんて言われて、
急に怒りが込み上げて、
糾弾!とか。
私はね、どっちも正しいのかなと思います。
酷い目にあってたという視点と、
いや、別に、なんとも思ってなかったよ、という視点、
どっちも正しい気がするんです。
視点の違いにすぎない気がします。
この時、本人に何が起きてるかを分析すると、
本人はその時、酷い目にあってるとは思わなかった。
ここはすごく大切です。 
この視点はとても大切だと思います。
たとえ、詐欺にあったとしても、大切なんです。
これがその時に自分の身におきた、正確な正直な視点だからです。
でも、それは別の人からみたら、酷い目だった。
これは別の人からの視点です。
でも、それも真実だと思います。
その人の目からみた真実だからです。
他人からみたら、それ詐欺だから、とかいうこともありますよね。
だから、その他人からみた視点も事実だとおもうんですね。
例がぶっ飛んでるかもしれませんが、
エジプトのアクエンアテンは実の娘と結婚してたりします。
「うーん、それってさー・・・・・・ 」とか現代人なら必ず思いますよね。
でも、当時それを何とも思わなかったわけで、そこに被害者も加害者も存在しません。
でも、現代人の視点からみれば、それは酷い話しであり、
「酷い」というのが事実であり、真実だと思うのです。
ただ、その当時には被害者も加害者もいないというのも真実なのです。
つまり、どちらも真実ということです。
まぁ、要するに、良し悪しとか、善悪とか、そういうのも
社会の中ではぐくまれたルールのようなもので、
もともとは全く何もそうしたものが存在しなかったというのが、
本当の所とも言えますよね。
でも、大切なのは、自分が本当にはどう感じたのか、という部分の吟味だと思います。
本当にはどう感じたの? 本当にはどう思ったの?
他人の感覚や感情に染まるのではなく、
常識や、通念にそまるのではなく、
自分はどう思い、どう感じたか。
非常に難しいのですが、
その部分にフォーカスしてほしいんですよね。
これって、「何が困ったことか」とかいう、ものさしみたいなものだと思うのです。
たとえば、私達は、学校とかで勉強とか教えられますよね?
でも、興味ない話しはことごとく興味なくないですか?
私は子供のころは、音楽の授業と道徳の授業以外は興味なかったです。
道徳の授業を好きだった人って、少ないみたいですが、
私は大好きでした。(爆)
道徳の本には、いつでもだれが正しいのか、どの人が間違ってるのか、
何がいけないのか、それが謎な感じの読み物が載ってました。
それをいろんな視点で考えるのが大好きでした。笑
国語は大嫌いなのに、道徳の授業は大好きでした。
子供の頃、そんなに勉強しないでいると困るよと言われましたけれども、
大人になって思うのは、勉強しなくても困ってません。
勉強しなくても困らないんです。爆爆
でも、私達は常識的な通念として、「勉強しないと困る」という思いを押し付けられてるんです。
でもこれもまったく事実ではないです。
だって、 勉強しなくても困らなかった人=谷原由美というのが存在しています。
つまり、「勉強しなくても、本当は困らない」というのが、事実なんです。
でも、もしかしたら、勉強しなくて困ってる人もいるのかもしれません。
この世にはそういう人もいるかもと思います。
でも、それは、その人の通念が作り出した困ったことに過ぎないんですよね。
ああ、なんか、すっかり話しがまとまらなくなりましたが、ま、いいか。。
まとまらなくても困らないです。爆
誰も困りません。爆爆
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