物事を理解するには階層がある。

最近つくづく思うこととして、

物事を理解するには、階層があることを理解しないと、

かならず間違うかつまづくと思うのです。

この階層が理解できないと、あらゆる事がごちゃごちゃで、

まったく理解に至らないと思うのです。

例えば、Aという出来事は、階層1ではBで、階層2ではAで、階層3ではC なんです。

で、これを階層が理解できてないと、この世は矛盾だらけ。。と思うわけですが、

実はまったく矛盾していないんです。

こうしたことは、たとえば、占星術を理解しようと思ったり、

セラピーを習得しようと思ったりしたときに、

必ず、ぶち当たる気がします。

ここの階層についての理解ができないと、

かならず先に進めません。

最近、私は子育てについての記事を書きました。

私は子供をしかりませんが、しからないには、しからないで良いほどの下地、

下準備があります。

それはしっかりした、相互理解の下準備です。

子供に踏み込みすぎない、

また、踏み込むべき時は必ず踏み込む、

という絶対に互いが信頼できる距離感と関係性を築いている下地があります。

これは私は子供をしかりませんといっても、

まるで自由奔放ではちゃめちゃとは違うのです。

これは、一見矛盾しているようにみえるかもしれませんが、

階層が違うことが理解できたら、矛盾していないのです。

多くの人は、しからないで子育てしたら、

子供が破天荒になってしまうと感じているだろうと思います。

ちゃんとコミュニケーションとるとか、

叱らないとか、

子供に踏み込みすぎないとか、

踏み込むべき時は必ず、すかさず踏み込むとか、

これを通り一遍に表面的に理解すると、

全部がごちゃまぜになり、矛盾だらけになり、

子供からも、「おかあさん、そりゃいったいなんだ?」と思われるでしょう。爆

そんな矛盾だらけの子育てをすると、

あるときは踏み込まず、

あるときは踏み込んできて、

とつぜんコミュニケーションを求められ、

とつぜん気持ちを聞いてきて、

とつぜん母は自分の気持ちを打ち明けてきて、

それでいて「お前の自由にしていいよ」といわれ、

爆爆爆

なんだか、さっぱりわからない・・という事になりかねません。

これらは階層を理解していないことからおきます。

階層にはざっくりわけて、3つあると思います。

1・地面に降りて、今ここ!でみる視点と、

2・ちょっと浮き上がって、他の人との関係性を見れる視点と、

3・さらに浮上して全体を見渡せる視点、

ざっくりわけてこの三つの視点が必要です。

この三つの視点が理解できると、

あらゆる事がよくわかるようになります。

同じ階層で、同じレベルで、すべてを理解しようとしないでください。

私は最近、

「インチャが癒えてる人が、どうして文句を言うのか?」

と言われたのですが、

それはすごく違うなと思いました。

インチャが元気ならば、必ず自分の思ったことを思ったように言えるはずなのです。

そこに嫉妬が混じることもあるだろうし、

自分が間違ったことをいう可能性もあります。

しかし、それらを恐れずに表現できるのは、自分を信頼しているからです。

自分のできること、できないこと、

自分の恐れ、自分の嫉妬、自分のいたらなさ、

それらも含めて、自分を信頼しているからです。

インチャが癒えてない人は、かならず格好つけますし、

素敵な自分を演出するでしょう。

愛で感謝で素敵です!みたいなことしか言えないでしょう。

そうでないといけないと思っているでしょう。

それは、本当の自分の気持ちを表現することに恐れがあるからです。

愛だし感謝だし、分かち合いです!というような

こうした態度は一見安定しているようにみえて、

まったく安定していません。

自分の気持ちを表現できる人は、

一見不安定にみえて、

実はとても安定しています。

ここに矛盾があるように感じるとしたら、

物事の階層が理解できていないのです。

現実に表現されているものは、地面の階層です。

愛とか感謝とか、クソとかこの野郎とかいうのは地面の階層なんですね。

その上の階層に、自意識の階層があります。

この自意識の階層では、普段は地面の階層で愛とか感謝とか表現している人は、

自我の階層では自分を信じられないからこそ愛と感謝にしがみついていることがあります。

綺麗なものにしがみつくしかないということがあります。

でも嫉妬心や野心を表現している人は、

自意識の階層では自分を信じているのです。

自分の中に愛や感謝があることがわかっているから、

野心や嫉妬心を否定していないのです。

なので、自分の嫉妬心を表現できてる人のほうが、

階層の上では安定しているのです。

でも、これも通り一遍ではありません。

その上の階層である自我でも、安定してないで、

ヒステリックに嫉妬心をあらわにしている人もいますよ。笑

また、自我の世界でも安定していて、

それで愛や感謝や分かち合いをいってる人もいるでしょう。

誰か人物を見たとき、その人がどの階層でどうなのか、

それがわからないと、その人の真意がわかりません。

言葉や表現されたものだけでは判断できないのです。

子育てもそうです。

叱らないといっても、私は放任しているわけではないのです。

でも、縛り付けているわけでもないのです。

毎日かならず、ご飯をつくり、

毎日かならず、10冊の絵本を読みきかせ、

遊んで、話して、格好つけず、相互理解しあう、

そうした土壌の上に、叱らない子育てがあるのです。

健全な自由があります。

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