ノーベル賞を取ろうぜ! 罪悪感の正体。

私は自分の中に、

親に感謝をしたから、

親孝行として、

親になにかサービスしないといけないという発想を持っていました。

なぜ、このような発想が生まれたのか。

「それは、何かやり遂げてないと思うからじゃない?」

と私は周りの人から投げかけられました。

「やり遂げてない、やるべきことをしていない、

なのに沢山のことをしてもらってきた。

だから、その足りない部分をサービスで返そうみたいな・・・」

「後ろめたい気持ちがあるのよ。だからサービスで誤魔化そうとしてるのよ」

ほお~そうか!

なるほど!

俺の無意識ちゃんはそんなことを考えちゃってるのか!!!!!!

親は子供にいろんなことをしています。

毎日の食事の世話はもちろん、

洗濯、掃除、学校の諸々のこと、

習い事、勉強の面倒、学校の持ち物の世話等、

数えきれないほどのことを、

親は子供にしています。

親はそれに対して見返りは別に求めていません。

お金を返せとか言いませんし、

自分のした労働を返せとも言いません。

でも、子供が一人前に自分で稼げないとか、

生活できないとかってなれば悲しみます。

悲しくて大人になってもまだ援助してしまうでしょう。

つまり子供の義務って、

自分で立派に稼いでひとり立ちすることなんですね。

そのときやっと親は、

良かった!!!!って手放しで嬉しいと思うはずなのです。

今まで食事を与え、お金を与え、教育し、叱咤激励してきた意味は、

立派に育ってもらうため。

それを子供である私たちも潜在意識の中で薄々わかっています。

もし、自分が自分に課しているハードル

(自分はここまでできて一人前だ!と思うレベルのこと)

に達していないならば、

私たちは、心の中で、無意識の中で、親に申し訳ないと思う。

だから、親孝行という名のサービス提供をしなければいけない気がしてしまったのです。

本当は、親が一番喜ぶことは、

自分が自己実現することです。

たとえば、私がオリンピックで金メダルをとったら、

それはめっちゃめっちゃ親孝行だと思いませんか?

私がノーベル賞を取ったら、

一族の誇りとなって、

親の喜びは頂点ですよね。

ノーベル賞も取らずに、

親の世話を一生懸命しても、

それって親は嬉しいでしょうか。

「それより、ノーベル賞を取ってこい!!!!」

これが親の本当の願い、望みではないでしょうか。

それができないから、

後ろめたい気持ちになるのだと思います。

そして、本当はノーベル賞を取るために頑張らねばいけない時間に、

親孝行と称して、うだうだ時間をつかったり、

さらには親孝行もノーベル賞もとれないとなると、

人は自分を正当化するために、

親をコケにするのだと思います。

この後ろめたさを感じたくないためには、

親は酷い人で、自分はそのせいで酷い人生を送ってる。

あんたたちのせいよ、といえば、

自分はノーベル賞を取れない理由になる。

自分がノーベル賞取れないのは、

自分のせいなのに、

正当に親のせいにしたいがゆえに、

親を馬鹿にして、コケにして、ツバはいて、

あんたたちのせいで私はこうなのよ!と言って、

本当は私はノーベル賞とれたかもしれないのに、

あんたたちのせいで、

それもできないわ!私は

あなたたたちより本当はエライのよ!

俺の気持ちを考えろ!と言って、

全てを親のせいにしていくのです。

なんて狡猾なのでしょう!爆爆

そのためには記憶さえすり替えます。

本当はその原点にあるものは、

自分がノーベル賞をとれてないという罪悪感でしかないのです。

私たちがするべきことは、

自分の自己実現を果たすということなのだと思います。

それこそが、自分がここに生まれてきた意味であって、

自分がこれがいいなーこれが素敵だなーと思う方向に、

突き進んでいくことが必要なのでしょう。

村上春樹のノルウェイの森で、緑がいいます。

『人生はクッキーの缶だと思えばいいのよ。

クッキー缶を食べる時にすごく好きなのとそうでもないのとがあるでしょ。

嫌な事があると、今は好きじゃないクッキー食べてると思う事にしてるの。

どうせ全部食べないと無くならないんだし。』

そうね。ほんとそう。

クッキーを食べていれば、ちゃんと食べてればノーベル賞に近づくのに、

どこかで食べるのをやめたり、

これまずいなと思ったりしてるから、

立ち止まって、

罪悪感がうまれて、

クッキーを作ってくれた人さえ恨み、

オカシなことになるのよね。

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