わたしは わたしではない

共有感覚がたとえ希薄だったとしても、
人は個ではありえない。
常に人は、
あなたは あなたであって、あなたではない。
星の数ほどこの現実があったとしても、
その現実に、割れた数だけ現実はあるのだ。
たとえ、となりの人との時間の共有感覚がなくても、
わたしは わたしであって わたしではない。
隣の人もまた、割れた現実の数だけ現実を持っているのだから、そこに共有感覚などあるわけがない。
だれとなら、何となら、共有感覚があるか。
きっとそれは、もともと割れてない、何か。
空間を超えている、何か。
すでに時間をこえている、何か。
それは、いつも、そこにあって、
だから、わたしは わたしでないのだ。
でも、それは隣の人と共有できる何かとは、全く異質のものだ。
でも、人は求めているのだろう。その異質なものを。
そういう足音がひたひたとする。
それは共有感覚への絶望と、割れ続ける現実への閉じ込められ感からの脱出だ。
わたしたちはどこまでいくのか。どこまでいけるのか。
そこに安堵の地はほんとうにあるのか。
だが、まったくもってわたしは絶望などしていないのだ。
それは君が一番よく知っているだろう?

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