「私なんてものは最初からないに等しい」
高次の存在に自分を預けることを帰依するとか、全托する、とかいう言葉で説明されることが多い。
よく、既存の宗教などでは
全托すること、帰依することの大切さなどを説かれるが、
ここで間違ってはいけないのは、帰依する対象である。
世間をみると団体や組織に帰依している人が多いが、それはとても間違っている。
それでは信念体系にはまり込んでしまう。
「私などは存在しない」と思うほどに帰依するのは結構だが、
その帰依の対象が教祖や団体であってはいけない。
それは何かを教えてくれると思うのだが、
教わるだけ教わったらさっさと自分の道に入るべきだ。
それができなければ、
その人はその組織や誰かに依存しているだけで、真の意味での帰依とは違う。
私たちが真に帰依しなくてはいけない相手は、内在する高次元の霊的存在だ。
自分を本当に導くのはその存在なのだ。
私は宗教とは関係ありません、と思ってる人のが多いと思うのだけれども、
そう言ってる人でも、とても依存的に生きてる人は多い。
その対象が宗教でないというだけの問題であって、
組織や会社や家族に帰依してしまってる人というのも多いように思う。
自分を捨てて、ご奉仕してしまってる人も沢山いるように思う。
それは対象が宗教だったら、おおごとに感じるけども、
会社や組織や家族やサークル団体ならば、おおごとでないと思ってるにすぎず、
やってることは同じなのだ。
私などは最初から無いに等しい、、という感覚は私は大切にはしているが、
だからといって、それは現象界の誰かや組織に自分を預けてしまうこととは全く違う。
その対象が組織や誰かであってはならないと思っている。
ここに、「全托」「帰依する」という事のトラップがある。
帰依する対象は、どこまで行っても、自分を導く高次の霊的存在に対して帰依するべきだ。
そこを誤ってはいけないと思う。
それには自分を導く霊的存在としっかりとコンタクトをとらなくてはいけない。