EFT(エモーショナル・フリーダム・テクニック)をしていて、
気がついたことが色々ある。色々ありすぎて、
ここに上手く文章で書けるかどうか自信がないが、書いてみよう。
私はこのテクニックを使って、
本来の自然な自分、何もない自分というのを取り戻したように思う。
それは子供の頃のような、何もなさなのだ。
何もなくて良いんだなという、空っぽの自分が生まれてきた。
そうしたときに、なぜか自然に、こうしてみたい、と思うようなことが出てきた。
これもとても不思議に、 ふっと湧いてくる、という言葉が似合う。
それは、今までのような自分の欲とか見栄とかとは全く違う、
とてもナチュラルなただそこにある、というような感覚から生まれてくる感じなのだ。
今まで無意識に閉じ込めていたエネルギーが流れ出したような感じだ。
EFTはとても日常的な「これいやなんだよね」という感覚にまずは注目していく。
そこがすべての入り口だ。
あなたにもあるだろう?こういう事が嫌。こういう人が嫌。
そこがワークの入口なのだ。
私には、「この人、すごく嫌だな」と思う人が存在した。(過去形。たぶん。)
それは自分にとっては
「こういうことはするべきじゃないんじゃないか?」
という自分の価値観に抵触する感じがして、
その感覚はとても嫌な感じで、
嫌だとおもうから、その人の存在が自分の中で注目の的となっていた。
その感覚に何回もタッピングを行った。
その様はとても人に見せられない。
タッピングで発する言葉は自分の素直な感情そのままなので、
○さんが嫌とかいう場合、
「○さんが嫌い!しね!」
とかめちゃめちゃ物騒なことを言いながらタッピングするので、
それはとても人には見せられない。
普段、人前では絶対に口に出せないようなことを、
はっきりと口にしてタッピングしていく。
そうして、自分が「こうはなりたくない」という対象を思いながらタッピングしてくと、
様々な啓示が降ってくる。
これがすごい。
この人嫌だという対象は、
「自分が故意に向こうへ追いやろうとしている価値感をその人が体現していることが多い。」
そして自分はその反対側へ反対側へ行こうと頑張っている。
しかし、その時の目線はその嫌な人なのだ。
その対象をみながら反対側へ行こう行こうと頑張るのだが、
目線がその嫌な人にある以上、その反対側へは
行けているようで行けていない。
嫌だ嫌だと言いながら、視線はその人でいっぱいなのだ。
その人を見続けて、頑張って頑張って頑張って反対側へ反対側へと行こうとするから、
ずっとずっと泳ぎ続けなければならず、疲弊していく。
本当は、ただ、目線をその人から離せばいいだけなのだ。
ということがわかってくる。
しかし目線を外す・・それが簡単ではない。
今度はそれをEFTタッピングしていく。
目線が外せないということにタッピングしていく。
不思議と、楽にその人が気にならなくなってくる。
楽にその人から目線が外せるのだ。
そして、自分がなぜ、その人が気になるのかが
実に客観的に見えてくる。
相手から視線を外すことができた時にはじめて、
自分の奥にあった、願望、欲望、そうしたものが見えてくる。
ああ、こういうことだったんだ、と気がつく。
そして、自分は自分の心の奥にある願望や欲望に反応しているにすぎないという事にきがつく。
ならば、反射でない自分、反応でない自分は何がしたいのですかと思うと、
そう思いながらタッピングを続けると、次の啓示がくるのだ。
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続きはまた明日。
第二話 http://kamiera.jp/blog-entry-548.html