EFTワーク・3

人との比較、何かの反応、で行動するという

その動機をEFTワークで取り除いていった。

すると、私には自分の存在の意味、

人生の意味などないかもしれないという事に気がついた。

それはとても怖い。

自分に価値がない、自分に意味がない、という感覚はとても恐ろしい。

だから、自分に意味を持たせるために、

人は仕事をしたり、誰かと結婚して子供を儲けて、

いい仕事をして何かの役にたつのだとか、

子どもを育てるためにお金を稼ぐのだ、などという意味を持たせる。

誰かのために、社会のために、何かのために貢献するのだという発想は、

本当は意味がないかもしれない自分を、意味づけするのに必死な行為であって、

それは、

対象があれば、誰かがいれば、何かの比較があれば、

意味ができて、意味が持てれば心理的に落ち着くというような、

人間の根本的な病のようなものではないかと思ったのだ。

守るべき対象物を持つことによって、自分に意味づけしているのだ。

または社会的ステータスを得ることによって、自分に意味づけしているのだ。

そこで私はこの人間の根本的病、自分に意味づけするのに必死で、

意味がなくなったら恐怖であるということについて、

EFTワークを行った。

私はその根本的病についてEFTワークを行った。

その時に、私は、みた。

恐怖が無くなった私はみた。

あ、 地球が毎日まわっていることに意味なんかないんだ。

そして、同じように冷静に、意味のないことは自由なんだ、ということを知った。

それは頭でわかったとか理屈でわかったとかではなく、

身体で知った。

身体が知っていたという感じだ。

人は、人生に意味を持たせようと、

色んなことをしてしまう。

それはまるで強迫観念のようなものだ。

でも、もともと意味などないのだがら、

人生として与えられた時間は

好きに使ったらいいのである。

意味の無い人生は自由なんだ。

本当はもともと意味などないのだから、

はじめから、なにもないのだから、

私たちははじめから自由なのだ。

自暴自棄になるわけでは全くなく、

私たちはあと30年もしたらだいたい死んでいる。

いや、若い人ならあと50年くらいあるか。

これを読んでいる人、書いてる私、みんな、

あと30年もしたら多くは死んでいるのだ。

その30年で何をしようというのか?

何を夢見ようというのか?

私はただ、この何もないし、

何の価値もない自分でいることこそが自由なんだと思った時に、

恐れるものは何もなく、失敗も成功もなく、

ただ、好きに生きたらいいんだなと

しみじみ感慨にふけったのである。

何かを獲得する必要はなにもない。

自分に意味づけする必要ななにもない。

そうして、自由というものを胸いっぱいに吸い込んだ私は

そこでまた、

次の啓示を見たのである。

続く。
第四話 http://kamiera.jp/blog-entry-550.html

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