自分から飛び込む

最近、ここ数日、
神秘体験をしたことある人が3人くらい続いてセッションに来られた。
一週間内に3人もそうした人が続いてくるのは珍しい。
夏だからかな。 
他の人の神秘体験は非常に興味深く、
しげしげと聞いた。
こうした体験は、本当にしたくてもできない。
その体験は神の恩寵のようなものだ。
それで、今日は、ビジョン視することと、こうした神秘体験の差についてお届けしたい。
私も45年間生きてきて、
神秘体験だろぉ、これは!というような体験はいくつかしてきた。
今後そうした体験をするかどうかはわからない。
でも、させてもらったことは今や一つ一つが宝物だなと思う。
なかには、たぶん読者は耳を疑うようなものもある。
馬鹿にされるかもしれないので、ここには書かないが。
そうした神秘体験は、ある日、ある時、
予期もしないときに不意に訪れる。
完全に自分は受け身で、
突然にやってくる感じだ。
体脱などは、最初は脳みそがジュンジュンいう。
ジュンジュンいって、轟音がなる。
それが終わると身体から抜けるが、その後また身体に帰ってくるときもジュンジュンいう。
あの脳みそジュンジュンはなんだろう。
体脱体験よりもっと10年位前、
ある晩寝ていたら、やはり脳みそがジュンジュンいって、
ふと目を覚ましたときに、自分の胸の上に、
ねじりの入った銀色の延べ板が 立っていたことがある。
え・
と思うと、その銀の延べ板がゆっくりと回転して、360度の角度から見せられ、
そのあと、また脳みそがジュンジュンいったかと思うと、消えた。
その時のその銀の延べ板の美しいこと美しいこと。
今となっては、銀の延べ板が美しいとか、意味わからんとか思うが、
見ているときは、視力がどうかしちゃったんじゃないかと思うほどの、
神々しい美しさを放っていた。
そうした体験はある日突然に起こる。
そして体験者はただ、受け身なのだ。
しかし、しかしだよ、
ビジョン視というのは、それとは全然違う。
ビジョン視というのは、広大な生命の無意識領域に自らが飛び込み、
そこから情報を取ってくる、というのがビジョン視なのだ。
ガイド様に会いたい、ビジョン視したいと思ったら、
みずからそこに飛び込んでいかないといけない。
神秘体験のように待っていても、やってこない。
自ら飛び込んで、ガイドに「ここに来てくれ!」と懇願しないとならない。
繰り返しいうが、待っていても来ないのだ。
ガイドに会いたいと思ったら、最初はガイドを自らイメージする。
私のガイドはこういう感じで、こういう顔で、こんな姿をしているハズダ!
というのをイメージしていい。
ガイドは、あなたがイメージした その器に入ってきてくれる。
みずから取りにいく気概がないと、ガイドはそこには来てくれない。
そうすると多くの人は、
「これは私が作ってるイメージであって、
ガイド様そのものとは違うのでは?」という。
いや、そうではない。
神をいつも想念している人は、いつでも神に守られている。
ガイドをいつも想念する人は、いつでもガイドに守られるのだ。
姿かたちは自分がイメージしたものである可能性もあるが、
そのエネルギーは確かにそこに存在していて、
彼らはいつでも私たちが、助けを求めてくるのを待っている。
だから、我々がイメージすれば、その器にガイドは必ず入ってきてくれる。
そして、あ!と驚くような体験をするのは、その後なのだ。
その後に、かならず、これは自分がイメージでつくったのではない!という体験をするのだ。
この順番を間違えてはいけない。
人間の無意識領域は広大で、そこには色んなものが存在している。
だから、「意図すること」がとても大切だ。
「自分以上の霊的存在の協力が欲しい」という意図はとても大切だ。
ビジョン視するとき、水晶視をするときも、
この意図がなければ、何をみるかわからない。
なんだかわからないものを見続けても、ほとんど意味がない。
それこそ、意味のない妄想と同じである。
そこに息吹をもたせ、正しい情報を得てくるコツは、
この意図にかかっているのだ。
そして、受け身でいてはいけないということだ。
待っていてはいけないということだ。
「正しい意図をもって、自ら取りに行く」
これがビジョン視のコツなのである。

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