世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない。

おはようございます。

3月29日に満月祭行います。

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さて、

幸福とはなんでしょう。

宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」といいました。

これはどういう意味でしょうか。

私達は、どこまで行っても「個人」であり、

どこまで行っても「世界全体」など知り得ることがありません。

キリストは聖書の中で

「神はあなたの髪の毛一本たりとも忘れたことがない」といいました。

つまり神は世界全体を知り得ているのだと。


実際にそのようなことがあり得るのでしょうか。

そして、世界とはどこまでを世界とするのでしょう。

この地球全体なのか、太陽系全体なのか、銀河系全体なのか、宇宙全体なのか。

そこまで世界を押し広げるならば、

世界全体が幸福になるなどということを、

だれがどうやって知ることができるでしょう。


そして、そもそも幸福とはどういう状態を示すのでしょう。

物質が豊かにあれば幸せなのか、

愛する人がいれば幸せなのか、

病気がなければ幸せなのか、

死が存在しなければ幸せなのか、


でも私達は、きっと病気があるから健康が素晴らしいと思え、

別れがあるから出会いが嬉しくなり、

死があるから生の輝きを感じるように思います。



そう考えていくと、私達に一般的に考えられている苦労というものは、

不幸ではなく、幸福の一部なのかもしれません。



さらに、そう考えいていくと、

世界全体が幸福であるということは、


私は今すでに実現しているのではないかなと思うのです。


苦労や悩みが幸福の一部であるならば、

世界はいつでもどんなに苦境にあってもそれも幸福であり、


幸福の輝きを放っているように思うのです。


世界全体が幸福でなければ個人の幸せはあり得ないという宮沢賢治の言葉を思う時、


この文章のキモは、「世界全体と個人」の関係性だと感じます。


世界全体が幸福であるという視点を持つことができなければ、

個人の幸福はやってこない、と言い換えてもいい。


ここでいう世界全体とは一体なんなのでしょうか。


明日に続きます。








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