ユングは、西洋人なので、禅については、
自身のアイデンティティを失わないようにしながら
理解を進めて行った。
ユングは、西洋人が安易に東洋文化にかぶれたり、
インド人のようにヨガをすることを、
あまり好ましく思っていなかった。
なぜなら、単なる同化は、
東洋と西洋との無意識にある葛藤を、
さらにその無意識に追いやり、
葛藤があることさえないような体裁を作って、
まるでそのもののように同化することは、
死ぬも同然だと思ったのだ。
とても危険だと思ったのだった。
確かにそれは潜在意識的には危険なのかもしれない、と
私も思う。
それでもユングほど東洋思想について理解した人はいなかった。
彼は悟りについて、こういう。
「自我意識の自己に対する、とつぜんの開けの体験。」
なんて的を得た表現だろうか。
この言葉は恐らく東洋人よりも、その神髄を理解している様子が垣間見える表現だと思う。
わたしたちは、
生まれてからこの方、
自分の個に執着している。
執着しているからこそ、自分なのだ。
大きな大海の中で、波が立ち、その波だった先っちょが、「わたし」である。
波立ち、「わたし」になるには、
他を作らねばならないし、
「わたし」は他と違うと思うことをしない限り、
「わたし」というのは存在しえない。
本当は、私たちは、個ではなく、
「わたしはあなた」なのだ。
つまり悟りとは「わたしはあなた」であることの、
視点の獲得だと私は思う。
この視点を私が出会ったのは、23歳くらいの頃だと思う。
その頃は出会っただけだった。
ヒンドゥー教に出会い、
どっぷりとその思想にハマり、
その中で「わたしはあなたである」と何度も思った。
しかし、
その頃は、
「どうやら『わたしはあなた』であるらしい」
そんな認識であった。
頭で認識するだけ。とても心でそうとは思えない。
これは悟りでもなんでもない。
頭でそう思っているだけの時は、
何も習得していないのだ。
ただ、「しっている」というだけ。「知識」だけ。
「勉強」しただけ。
イン哲にハマっている人は、
いろんなことを「知っている」だろう。
教義は奥深い。
しかし、そこから、知っているだけから、
潜在意識でわかるという状況になるには、
高い壁がある。
そこについて、
イン哲では教えてくれているようでいて、
実は何も教えていない。
ヨガでも教えていくれているようでいて、
実は何も教えていないのだ。
ユングが悟りが何かを言葉で表現できるその力は、
彼が潜在意識の海を泳いだからだと思う。
それは知識とか教義とか違う。
自分の潜在意識の中から、教義を産みだしているのだ。
ここにしか、真実はないんだよね。
つまりは自分の潜在意識を掘り起こすことでしか、
真理には出会えないのだと私は思っている。
教義もヨガも、真理に出会う手伝いはしてくれていない。
悟りというと、何かおこがましく、仰々しいものだが、
ただ、「わたしはあなたである」という視点の獲得に過ぎない。
これを頭ではなく、潜在意識でわかること。
心の深いところで本気で理解できること。実感認識できること。
人に説明できるほど、わかる事。
これが悟りだ。
ただ、高い視点の獲得なのだ。
人生のどこかで、この高い視点を獲得しないならば、
たぶん、人生は、どこまで行っても、どん詰まりだと思う。
どんなに、あなたは素敵だとか、
あなたは悪くないとか、
あなたは間違ってないとか、
そのままのあなたでOKだよ、とか
そんなこと言われても、
人生はどん詰まりだ。
そんな言葉で、救われるなら、
世界中の人は簡単に救われているだろう。
そうじゃない。
あなたは間違ってないとかじゃない。
あなたはわたしだ、ということ。
わたしはあなただ、ということ。
この境地に何が何でもたどり着く。
このことでしか、世界は救われないのだよ。
意識の旅研究所のヒプノは、
あなたがわたしである、を実感認識するための、プログラムを組んでいます。