そのままでいいのか?そのままではいけないのか?

「毎日欠かさない」ということと「やらねば病」。
これらは相矛盾しているようにも見えるが、矛盾はしていない。
不必要に「絶対に~せねばならない」と思うのは信念体系だ。
家は綺麗でなければいけないとか、料理は完璧に作らねばならないとか、
それが自分や他人にとって、気持ちいい状態ならばいいのだが、
綺麗であるために子供に汚すのを許さないとか、
誰かが散らかすたびにイライラして怒鳴るとかでは、本末転倒だ。
「せねば病」にかかって気持ちに余裕がなくなるならば、やらないほうが良いかもしれない。
でも、もし、やってみたいこと達成したいことというのがあるならば、
その事に関しては「やらねば病」にかからねばならない。
今はスピリチュアルな業界ではなんでも
「そのままのあなたで良いんです」「~~せねばという考えから解き放たれましょう」ということが推奨される。
確かに自分をがんじがらめに縛る何かからは解き放たれたほうが良い。
非論理的な縛りからは解放されるべきだし、
世間的な価値や見せかけの価値観に縛られる必要ない。
このやらねばいけないんだ!という病気と、
毎日欠かさないでやるべきだ!というのは次元が違う。
やらねば病は目的があいまいで、非論理的な事が多い。
だから無意味に苦しいだけなのだ。
でも毎日欠かさないでやるんだ、という場合、
目的も目標もあって、それが他人から押し付けられたものでないならば、
それをやってる自分は楽しいし、楽しくないと思う時も、
それでもやろうというような情熱が湧いてくるはずだ。
こうした次元の違う話というのは、先ほどの
「そのままのあなたで良いんです」という話にもある。
「そのままの自分で良いんです」といって、何もしないで、毎日ぼんやりしていても、
「このままの自分でいい」と思える人はいないのではないかと思う。
自分のキャラクターを自分が愛するということと、
自分の行っている行動を自分が愛するということは別だ。
自分のキャラクターは自分でこそ愛するべきだ。
でも、その自分が行っている行動に関しては、自分でこそ厳しく見るべきだ。
その自分の行動とキャラクターをごっちゃ混ぜにしている人が多い気がする。
自分が軽はずみに失礼なことをしてしまったなら謝るべきだし、
いつでも自分で修正することが大切だ。
私はこのブログも時々、間違ったことを書いてしまうこともあって、
何度か修正したり記事を削除することもある。
駄文となって消えゆく記事が沢山ある。
そうした修正は自分でしかできない。
あたりまえだが、誰もやってはくれないのだ。
自分で厳しくチェックしてOKを出すべきであって、
「そのままでいい」なんてことがあるはずがない。
「そのままのあなたでいい」というのは、
『生命体の私』というようなかなり次元の高い話なのだ。
この次元の高いF27視点みたいな、いや、もっと高いのかもしれないが、
そうした視点での「このままの私でいいんだ」という絶対的信頼を得るには、
このF27の領域に何度も行く必要があるし、
そこに自分の確固たる立場を作ったほうがいいと思う。
そのスタンスがないと、現実界で生きてる自分に正しいツッコミが入れられない。
自分の行動や発言、書いた文章などに、「おいおいおい、それいいのか?」というツッコミは
自分でしか入れられないし、それにはF27かそれ以上の高い視点が必要だ。
「~せねば病」と「毎日欠かさない」という精神も同じ。
高い視点でもって、いまの自分がすべきことだと思えるか、そうでないかという視点が大切だ。
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