○○が嫌という時にそれについてタッピングをしていたら、
自分の心の奥にあった、欲望とか思い込みみたいなものが出てきた。
そうして、全てがそのことを基準に自分が反応しているに過ぎないことがわかってくる。
つまりそれは、自分が人との比較や人との反応で、
人生設計をしたり行動していたりする、ということがわかってくるのだ。
ならば、反射でない自分、反応でない自分は何がしたいのですかと思うと、
そう思いながらタッピングを続ける。
ようするに、何もなく、自発的にわいてくる人生テーマというのは何なのか?
というテーマでタッピングしていったのだ。
すると・・
「あ、何もないかもしれない。」
何もないかもしれないということがEFTワークで降ってくる。啓示が落ちてくる。
人も対象もないところで生まれてくるものなど何もないかもしれない、と気づくのだ。
でも私は、何もないかもということを感じたくないし、気づきたくない。
何もないかもということへの恐怖を本当は抱いているのに、感じたくない。見たくない。
人生の意味を見失ったときに、人はエネルギーを失う。
そこには根本的な恐怖がある。
だから意味を持つべきだと私は思って来た。
本当は何もやりたいことなんかないかもしれないのだが、
それを隠すために仕事してみたり、表現してみたり、発言してみたり、活動してみたり、
でもそうした行為すべてが「何もない」ということからの逃げなのではないかとおもったのだ。
何もない自分から逃れるために、自分に価値を持たせるための行為に走る。
人にはそうした根本的な自分に価値を持ちたいという欲望がある。
自分に何もないことを知りたくない、感じたくない。だから活動してしまう。
それは人類の本質的な逃げなのではないかということが、気づきとして降ってくる。
よく言われるような、人は誰かを助けるために生まれてきたとかいうのも、高尚な逃げなのではないかと。
本当はそんなものも何もないというのが、真理なのではないかと。
今度は、私はその事にEFTワークをした。
何もないことが怖いということをワークしていった。
わたしは、「人生には意味がないという恐怖」に対してワークをした。
続く。