先日、ツイッターでこんな記述をみかけた。
バカボンのパパのセリフ
自分トフタリッキリデ暮ラスノダ
自分ノパンツハ自分デ洗ウノダ
自分ハ自分ヲ尊敬シテイルカラ
ソレクライハナンデモナイノダ
自分ガニコニコスレバ
自分モウレシクナッテニコニコスルノダ
自分ガオコルト自分ハコワクナルノデ
スグ二自分ト仲直リスルノダ
自分ハトッテモ傷ツキヤスイカラ
自分ハ自分ニ優シクスルノダ
自分ノ言ウコトサエキイテイレバ
自分ハ自分ヲ失ウコトハナイ
自分ハ自分ガ好キデ好キデタマラナイ
自分ノタメナラ生命モ惜シクハナイ
ソレホド自分ハスバラシイノダ
何かを為してる人は努力とか毎日の努力とかそんな言葉では片づけられない執着心があるんだ。
と友人が言った。
確かに計画的努力とか、毎日コツコツとか、そんな努力で出来た物なんか大したことない。
かられるような執着心があるから、偉業をなしあげるのだろう。
何をやってても、フッとこれでいいんだったっけかな?と思う事ってある。
僕は時々思う、この世界で一番幸せな人を。
何を手に入れたら、感じられる
どこにもいないさ、そんな人は BY浅井健一
フッと疑問に思う理由は、きっと人は何を手にしても幸せだとか幸福だとか思わないからだと思う。
人というのはそういう生き物なのだ。
人というのはそういうもの、という性質を良く知って、
じゃぁ、どうしたらいいんだ、ってのは大切のように思う。
私はピアニストになるなんて夢は最初から持っていなかった。
ピアノの先生になれたらいいな、とにかく何でもいいからピアノが仕事になればいい、と思っていた。
その夢はそんなに難しい夢ではなくて、
学校の卒業と同時にカルチャーセンターでピアノを教え始めたら、沢山生徒さんが集まって、
あれよと言う間に30人以上の生徒さんがいた。
ピアノ業界は少子化とピアノ離れのせいで何処も生徒が集まらないでかなりの経営困難に陥っていたので、
私のようなケースは珍しいようだった。
でも、バチ当たりなのは承知で言うならば、教え始めて思ったことは
「これが本当に私のやりたいことだったのだろうか・・」という疑問だった。
小さな子供相手に、ベビーシッターに近いみたいな感じも時々したし、
毎日、色んな子供相手に四苦八苦、喉はガラガラ、異様なテンションを保ちつづけ、
精神力だけでやってるみたいな感じだった。
私はただ、音楽の大海をただただ泳いでいたいだけだったのに、現実はそうではなかった。
その時の私を支えたのは
「幸せになる道は、自分のしたいことをするのではなく、するべきことを愛するべきだ。」
というインドの聖者の言葉だった。
何度もその言葉を反芻しては、自分は自分に言い聞かせた。
「するべきことを愛するべきだ」
2年間生徒と格闘した後に私はポーランドに行くことになった。
どのくらいホッとしたか計り知れない。また音楽の大海に戻るのだ。
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自分が一番ニコニコできることってなんだろう。
自分は自分のいう事さえ聞いていれば、自分は自分を失うことはない。
インドの聖者のいう事は半分あってるが、半分間違っていると思う。
私ならこう言いたいと思う。
「幸せになる道は、自分のしたいことをするべきだ。そして始めたことに執着せよ」
どんなことも、どんなに好きだと思ってたことも、仕事となったらそうは言ってられないこともある。
ピアニストだってそうだ。ピアニストになりたい!とおもってやってきたのに、
いざピアニストが本業になったとき、それは楽しいとか好きとかだけではやっていられない。
でも道は続いていくのだ。
その時必要なのは、やるべきことを愛する?? 愛とか言えばカッコいいかもしれないが、愛というのは執着だ。
愛と執着は違います、、なんてのは幻想にすぎない。
その時にピアニストを支えるのは、圧倒的な執着力ではないだろうか。
どれだけ執着できるか、ってそれは、努力とかでは補いえないものだ。
努力でその道を歩き続けるのは、限度がある。
努力で道が開かれるのではない。執着力で道は開かれるのだろう。
あきらめない気持ちなんてのは、努力では養えない、そこには圧倒的な執着心がなくちゃだめだ。
「やるべきことを愛しなさい」そんなやわなものではなく、、、と思ったけれども、
執着しきれない時には「やるべきことを愛そう」
・・・とりあえずはそんなところから始めるのも悪くない。