役割を演じる

よく若い人でありがちだと思うのですが、
他人に見せている自分と、見せてない自分が違うような人格や性格を持っていると、
なんだか、裏表のある人間なのかなとか思ったりすることがよくあると思うのです。
家族に見せる自分と、学校にいるときの自分が全然違う・・・とか、
または、そういう事を家族に指摘された・・とか。
はっきりいって、そんなのは違くて当然です。違くなくてはいけない。
違うということが大切なのです。
学校の生徒という役をする自分と、家庭の子供という役の自分は違うべきです。
その場その場でふさわしい自分がいるということが、大切です。
裏表があるというのをいけないことなんて思う風習はいつからはじまったのでしょうか。
正しいペルソナを育てるには違くなきゃいけません、と教えるべきです。
親は子供に、「あんた家にいるときと、学校にいるときと全然違うのね!」なんて茶化して言ってはいけません。
絶対にいけません。もしお子さんが家にいるときと学校にいるときと違うな、と思ったら、
お子さんは正しく育ってるということです。
いつでも、どこでも同じである、ということがカッコいいことのように思われる現代ですが、
それはただ、よく世間が理解できていないだけです。
私の知っている私が素晴らしいと思う人、先生はすべて、みんな、
役割、役割をちゃんと使い分けています。当たり前ですね。
これができなくて、かっこよくやってる人なんているわけないのです。
それができないようでは、自分の中心核を掴みに行くことは絶対にできません。
いつでも自分。いつでも俺。 みたいな人は、完全に分割して割れてしまっているのです。
場面場面で、元の自分を分割しているから、すべてが自分になっているわけです。
それを統合化するのはとても難しい。
それは指揮者がいない楽団のようです。
役割を演じれるということは、
上位に自分をコントロールする指揮者が存在するということなのです。
その指揮者をいつ、どうやって、意識するか。
それが中年の危機と関係してくるわけです。
つづく。

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