私を見ている私を見る

グルジェフのワークに
「私を見る。私を見ている私をみる。さらにそれを見ている私を見る」というようなワークがあるらしい。
こうしたことは普通の生活ではあまり意識的にはやらないかもしれないが、
音楽家は必ずこうしたことは嫌と言うほど、やらされる。
ピアノの演奏をしている時に、「演奏しながら、自分の演奏を外から聴いている自分を持て」、ということは
耳にタコができるほど、もう嫌!というほど指導者から言われる。
今自分がどんな演奏をしているのか、それを客観的に聴きながら演奏することは、
最初の頃はなかなか難しい。
曲が高揚してきて、高揚してきたらもちろん高揚した演奏、熱気のある演奏をするべきであるが、
どんなに熱気のある音を繰り出していても、その演奏を限りなく冷静に客観的に外から聞いてる自分を
保たなくてはいけない。
音、テンポ、感情表現、すべて自分がコントロールできなくてはいけない。
100回弾いたら100回、同じ音で弾けるようにしろ、と私などは言われた。
こうした訓練は音楽関係者は嫌というほどやらされる。
恐らく舞台俳優とかもそれを求められるだろうし、
一発芸能というか瞬間芸術みたいなものは限りなくそれが要求されるだろう。
運動選手もそれを求められるだろう。フィギアスケートとか、野球選手とか、
常に自分の演技や投球などを客観視する自分がいなくてはいけない。
そうした訓練は普段の生活にも、色んな仕事の場面にもとても使える気がする。
悲しんでいる自分がいるならば、怒っている自分がいるならば、
それを見ている自分をもう一つ持つといい。
冷静になぜ自分は怒っているのか、なぜ悲しんでいるのか、
客観的に見るといい。
そうすると、そこには自分のこだわりのようなものが忽然と姿を現すだろう。
例えばAさんがBさんの言動に突然怒ったとする。
こういうことは良くある。いろんな人のブログを見てると、
突然に怒ってる人とかいる。
ブログにその怒りをつづってる人などいたりする。
しかしその怒りの本質はBさんの言動にあるのではなく、
Aさんのこだわりと、客観性のなさである。
本質はBさんに問題があるのではなく、Aさん、ご本人の問題なのだ。
ブログなどに怒りをつづるのは大変結構なことだ。
なぜなら、自分の怒りを文章にすれば、
客観視できるからだ。
自分のこだわりを客観視できるからだ。
なので私も時々書く。
でも、見ている限り、そうした客観した視点までこぎつけている人は少ない。
怒りを書きました、で終わっている。
なぜ自分が怒りを抱いたのか、その自分の原因は何か、
そこまで思考すべきだと思う。
あくまでも自分の怒りは自分の問題であって、
他人の問題ではないということだ。

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