私たちはなぜ生きるのか。何のためにここに存在しているのか。
生きる意味がわからないと私たちは方向性を失う。
生きているすべてが空虚にさえ感じるだろう。
なぜ生きるのか、どうして存在するのか。
そういう問いは誰もが一度は問うのではないだろうか。
私は14歳の時、中学2年のとき、その時は日本にいなかった。
毎日、暇で、暇すぎるなぁと思いながらピアノを弾くことと思索することだけが楽しみで生きていた。
その時に書いた作文がある。
題名は「生きる」という題だ。文集に収められているので今でも持っている。
14歳だった私は、なぜ生きるのかという問いを出し、
あれこれ理屈をこねまわし、最後に
「なぜ生きるのか、その意味を探すために私は生きるのだ」
という結論を書いていた。
私はとても地味な大人しい生徒だったので、その作文を読んで、担任の先生が
「キラッと光るものを感じた」と言ってくれたのが嬉しかった。
私は今も変わらない。
多分変わっていないと思う。
なぜこの世があり、人はどこへ向かい、なんのために存在しているのか、
その質問は、この世に発してもしょうがないのだ。
自分に発せねばならない。
なぜ自分はここに存在し、どこへ向かうのか。
その問いに全力で答える義務が人にはある。
自分の人生をかけて、その答えを作る義務が人にはあるのだ。
多くの人はこの問いを世界や他人に問おうとする。それは間違っている。
なぜなんですか?と他人に聞いたところで、神様に聞いたところで、誰も答えない。
私はどうしたらいいでしょう。
その意味をわからせてくれない世界を憎んだり、
この世に自分を送り込んだ親を責めても意味はない。
その答えに他人は絶対に答えられない。
その答えに答えなくてはいけないのは自分自身なのだ。
私はなぜここにいるのか。 自分で自分に問わねばならない。
何のためにいるのか。 自分は何のためにいるのか。
どこへ向かうのか。 自分はどこへ向かうんだ、こら。
その意味を自分が見出すために自分はここに存在している。
その意味を人生をかけて全力で答えなくてはいけないのは自分なのだ。
人生をかけて、その答えを作る義務が人にはあるのだ。