今日は春分ですね。
昨日は「おかしいと思わなきゃいけない」という話を聞いていて、
つくづくそうだな、と思いました。
「おかしいな」って今まで思う事ありませんでしたか?
私が最初に「おかしいな」って思ったのは、子供の時。
今、思えば、私は学習障害だったと思うのですが、
文字がおえない人で、文字が覚えられなかったのです。
そんな自分を「おかしいな」と思っていました。
私は、学校の先生よりも私のほうが頭が良いとさえいつも思っていたような、
とんでもない子供でしたので、
そういう人に点数つけられてバカにされるのは我慢ならないとおもっていました。(爆)
私の中で頭が良いという意味は、的確に物事や現象を理解できることだと思っていたように思います。
でも、学校とかで求められていることはそうではなかったんですね。
小学校3年の時には、記憶というものが一切できなくて、
親は学校の先生に「娘さんの将来を真剣に考えたほうが良い」と言われたらしいです。
しかし親にも私は「お前は頭が良い」と言われ続けて育ったのです。
親もそう固く信じていたように思います。
それはオベンチャラではなかったように思います。
いろんな場面で私が何か言うと「お前は頭が良い」と親に言われて育ったのです。
なので、我が子のこの状況が、親にも理解はできなかったようです。
今だったら、たぶん学習障害とかレッテルを貼られて、障害者扱いだったかもです。
しかし、昔は障害者として扱うのではなくて、
能力のない頭の悪い子供として扱われた。
どっちが良いのかは微妙ですが、
このような扱いを自分が受けるのは「おかしい」と思っていました。
これは大切な感覚だと思います。
「当然と思わないことが大事」だと思うのです。
しかし、私が子供を産んで、子供の教育とかに関心を持つようになった時、
シュタイナー教育とかいろんなものに触れて行ったときに、
自分の育ち方はとても健全で正しかったと思うのです。
シュタイナーは小学校低学年の時は記憶する年齢ではないと考えられていて、
記憶を優先するとその後の成長で障害が出るとされています。
自発的に考えることができなくなり、
周りの価値観によって判断し行動するようなロボット状態になり、
自分で考えても独創性がうまれないと言います。
これは本当にそうかもしれないと思います。
子供の頃、私は記憶というものが一切ダメでしたし、
文字というものを拒絶していましたので、
自分で面白いものを思いつくことや、考えることや、想像することだけに
喜びがあったように思います。
本を読むというのはとても推奨されていますが、
あれは、ひたすら受け身なのですよね。
子供のとき、どんな本よりも自分の中にあるお話しのほうが面白いとおもっていましたし、
そのお話しの中に没頭することに命を燃やしていました。
小学校受験とか、中学受験とか、
小さいうちに受験させるということに、
わたしは断固反対です。
やはり受験は高校受験からだと思います。
その前に記憶をいじっていはいけない。
いや、そんなことが書きたかったわけじゃなくて、
「おかしいと思わなきゃいけない」という事が書きたかったのに、段々話がずれてしまいました。
続きはまた明日。