現実の認識の仕方

昨日は新月のようであった。
私のMC上でおきた新月ということで、別に意図したわけではないが、
今後の人生計画ってなんだろうかと思いを馳せたのはそのせいなのか。
思いを馳せて何か思いついたかというと、全く何も思いはつかないが、
思いつくつかないは置いておいて、自分がどこに向かうのかということは、
時々考えなければならないことのように思う。
人は習慣化してくると、その事を行うことについて、
何の抵抗感もなくなっていくし、
抵抗感がなくなるどころか、
自分の癒しになる。
例えば、主婦になったばかりの頃は、
毎日ご飯を作る!? とんでもない!!みたいな状態だったように思う。
それはすごく自分にとって大変なことだったように思う。
今は、ご飯を作るのは、私にとって、癒しとリフレッシュだ。
時々、仕事の後に、
「これから家に帰って、ご飯とか作るんですか?」とか聞かれたりすることがある。
それは、その人にとって、ご飯を作るというのが
大変なことだと思っているのだろう。
それは脳みそが「大変な事」と処理しているから大変なのであって、
それが「癒しである」と脳みそが処理したら、それは圧倒的に「癒し」だ。
私は休日に講座や用事で出かける時は、
家族中のお昼のお弁当とか、夕ご飯とかを作ってから出かける。
それは、やらないですめば、たしかに時間が空いたりするかもしれないけれど、
作ったからといって、時間が無くなったりもしないものだ。
これは本当に声を大にして言いたいところなのだ。
作ったからといって、別に時間や体力が無くなったりしないのだ。
体力や時間がないと思っているのは、たぶん、脳みそがそう思い込んでいて、
そう処理しているだけのことなのだ。
大変・・という時に、人は不思議と被害者意識になっていると思う。
被害者意識というのは、人生を完全に台無しにしてしまう。
時間も労力もすべてを台無しにする。
そうしたとき、人はエネルギーをだらだらと失うだろう。
現実というのは、直面しているものは、
自分の色眼鏡に過ぎないんだよね。
意識が変われば、全てはガラン!と音を立てて変わってしまうんだよね。

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