どんなに遠いどこかの星にいっても、 そこに広がっているのは、 自分の世界だ。

最近、つくづく、全ての現象は自分の解釈でしかないと感じる。

例えば、

AさんがBさんに〇〇した。酷いよね。

Bさん可哀相だよね。

Aさんが絶対に悪いよね。

Bさんもそう思ってる。

という一つのストーリーがあるとして、

Aさんが悪いというストーリーを自分が握っているから、

このストーリーが現実に起きているように見えるだけで、

現実はそんなことはどこにも起こっていない。

自分の中に最初からそのストーリーが存在し、

起きている現象を、そのように組み立てたのは自分なのだ。

この意識の原理に入らない限り、

真実には至らない。

必要なのは意識の原理だ。

現実の解釈ではなく、

意識の原理なのだ。

現実の解釈や同情や心情ではなく、

必要なのは意識の原理だ。

意識の原理。

意識の原理。

この意識の原理を知らずして、

宇宙は語れないと、わたしは思っている。

アイツが悪いとか、

地球のせいだとか、

地球に閉じ込められてるだとか、

その場合、間違いなく、

自分を閉じ込めてるのは自分自身だ。

地球から脱出したいとか、

脱出したいならば、

この地球を作ったのが自分であることを知らないとならない。

脱出したいような地球をつくったのも自分だと知らねばならない。

そんな地球は、実はどこにも存在しない。

自分が作ったにすぎないのだ。(あら、残念w)

ただ、そういう解釈が自分にあり、

自分がそういうストーリーを作った、というのが真実である。

その事に実感認識がないならば、

どんな恒星にいっても、

ただただ、自分の世界が広がっているだけなことに気づけないだろう。

どんなに遠い、どこかの星にいっても、

そこに広がっているのは、

自分の世界だ。

自分の創作物しか、そこには広がっていない。

わたしにはそれがわかるので、

銀河の探索は、

その真理にたどり着くためにするものだと思っている。

確実に、着実に、その真実にたどりつけるだろう。

もしたどり着けないとしたら、

その探索は間違っているのだ。

間違った探索は、何かの設定に迷い込むと起こる。

ある設定を思い込むと、間違った探索しかできなくなる。

誰かの思想に染まったときも、

それを疑うことをしないならば、

間違った探索しかできなくなるだろう。

それがグルジェフだろうが、ケイシ―だろうが、シュタイナーだろうが、

どんなに偉大な思想家の何かだろうが、

それを疑うことができない人は、

真理にたどりつくことはない。

その場合、一生わからないままに過ごす可能性があるだろう。

わたしは、この真理については、

宇宙探索をしていたときに、

気が付いた。

誰もが自分の世界から、

自分の創造物から抜け出してないこと。

星が細胞であること。

誰かの夢に入り込んではいけないこと。

誰かの設定に入り込んではいけないこと。

抜け出すルートなど存在しないこと。

わたしの無意識は、全てを知っている事。

誰にとってもそれがそうであること。

こうしたことが、探索時に発見したことだった。

銀河教室では、

意識の原理で、

宇宙を変えられることを知るために、

それぞれが自分の宇宙にいることを実感認識するための、

教室です。

誰かの夢や設定に入るためのものではないです。

それこそ、

目に見えない鎖であり、

目に見えない支配、コントロールマニアなのですよよよよよよ。

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