高校を卒業して、数年たったときに、親友に手紙を書いた。あのとき、本当はこう思ってた、とか、そういう感じの。
私にとっては、ものすごく大切なことで、結構、意を決して書いたのだけども、
蓋をあけたら、同じ時間を同じように過ごして他にも関わらず、
親友が感じてたことは、全く私とはかけ離れたものだった。
起きた出来事のとらえ方も全く違くて、
あのとき、あの瞬間、あの場面、
心が千切れるほど感じたあの感覚を、私は親友と「共有してる」つもりだったのに、
全くもってそれが勘違いだったことにびっくりし、
また、これこそが現実というもので、これこそが真実なのだ、ということを理解した。
20歳のころ。
僕の感じているものを、君に感じてもらいたい
あまりにびっくりして、そのことを
どう感じて、どうびっくりして、どう悟ったのか、ということを
現実って何かしってる?というような感じで、
数名の人に手紙で書いたほどだった。爆
その結論は、「自分が感じてることが、この世の現実のすべてだ」というものだった。
同じように「あなたの感じてることが、 この世の現実のすべてなのだ」と。
この世の現実は人間の数と同じだけある。
それは机上の空論でもなく、
論理の世界でもなく、
「現実に現実として、それこそがこの世の本当の真実の姿なのだ」と。
私たちは時間を共有しているようで、全く共有していない。
空間を共有しているようで、全く共有していない。
理屈っぽかった20歳の私はそれを力説して、数名に手紙を書いたのだった。
今は、それは、もちろん、私が悟った部分として、私の一部として今もあるけれど、
今の私なら、昔の私にこう言うだろう。
「それは、エーテル体的に共有できたときに初めて人は共有するのであって、
同じ階層に互いがいなければ、いくら時間や場所を共有して、そこで夢みも、それは共有してないに違いない。 一緒のものみて、一緒にご飯食べて、一緒に寝ても、それは共有にはならない。」
だがしかし、わたしたちは、個を捨てたエーテル体レベルにおいてでも、
共有するということが本当にあるのだろうか。
それはあり得ないのかもしれないし、、
なければないでも全然かまわない。
この、ゆるやかな、なまあたたかい、自己の意識を 私はいつまで どこまで もちつづけるのだろう。
私は夢見る。 高い、丘の、 窓のうえから。
コメント
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コメントの名前は自分でいれるのか?