連日お伝えしている、水晶練習会のほうですが、
8月19日は参加者様が10人になりましたので、こちらは締め切らせていただきます。
8月12日のほうは、今の所6人です。まだ少し入れますが、6人くらいがちょうどいいような気がします。
でも、参加したいかたは受け付けておりますので、メールしてください。
10人とか、あの部屋に入ったことないので、ちょっと想像しかねますが、
このクソ暑い夏・・・あ、失礼、非常にお暑いこの夏にですね、
10人の人がマンションの一室で、水晶相手にジーっとしている図は想像するだけで、
異様すぎてちょっとわくわくしてきました。爆
松村先生に言わせると、すぐに「谷原さんの好きなアシュラム・・」とか言うんですけども、
それ聞くたびに、なんかちょっと・・・・いえ、あの、なんでもございません。爆
宗教的な恍惚感というのは、私は一時期どっぷりはまり込んでいた事がありますので、
その宗教的恍惚感でどんなことができるか、というのは体験的に知っています。
それは凄いものがあります。一瞬にして物質化するとか、自分の手の中で物質の形が変わる瞬間を見るとか
そのすべてが、非常な恍惚感と伴って起こるみたいな感じで、それはサイキックとかそんな種類のものではありません。
信仰によって山をも動かすことができる、という聖書の一節がありますが、
そういう感じです。信仰によって、実際に黒を白にするくらいのことは難なくできてしまうのです。
それは魔術とかサイキックとかそんな種類のものではありません。
ただひたすらに自分という感覚から離れ、ただひたすらに大いなるものと一体になっていった結果であって、
無私と慈愛しかない、という感じです。
あの、得も言われぬ甘美さとか、凄い恍惚感とか、それは毎日毎日を
朝起きた時から寝る瞬間までを、自分の一呼吸一呼吸までも、神ながらに生活していくと体験できます。
それによって完全な自己統制みたいなものができていく。
朝3時とか4時に起きて、朝の祈りとかマントラとかから一日を始めていくわけです。
結構おもしろいですよ。
それは一気に精霊の集団が自分の背後につくみたいな感じです。
でも、その生活を5年もすると、今度は、恐怖になるんですね。
これも体験的してみると、凄いものがあります。
自分が一日でも堕落したと思われるような生活をしてしまったら、
もう自分はダメなんじゃないか・・・というような、縛りと恐怖が生まれてくるわけです。
信仰生活は霊性勉強するにはとても良い。
一度は体験してみると、自分の心のコントロールの術を知ることができる。
でも、勉強できたと感じたら、離れるべきです。
離れるべきです、とさらりと書きましたが、
私は自分の一度抱いた、信念から離れるのに10年の月日を要しました。
もう、離れただろう、もうわかっただろう自分、と思っても
繰り返し繰り返し、その縛りはやってくるのです。
何度も、何度も・・繰り返し・・繰り返し・・その度に、この信念から離れるにはどうしたらいいか、もがくのです。
一番効果があったのは、一番してはいけないと思っている事を、わざとわざとやっていくとでした。
その度に、もうダメなんじゃないか、もう自分はダメなんじゃないかと思うわけです。
例えば私は信仰生活を支えるために何年もベジタリアンをしていましたが、それも
最初は楽しいベジタリアン生活であっても、のちにそれは縛りになるわけです。
動物性のものを食べたら、自分は落ちるのだ、というような考えがわく。
それに対して、いやダメじゃない。さっきの自分と今の自分と、何も変わらないはずだ。
自分は何も変わらないはずで、自分を支える精霊たちも、誰も私を非難していない。
それを確認するために肉食をわざとしたりしていくわけです。わざと飲酒をする。わざと喫煙する。
そうして、そうしても自分を誰も非難しないのだ、ということを何度も何度も確認するわけです。
その上で、自分は何を選択するか、を一つ一つ確認しながら決定していく。
自分は自由だ。そして自分の意志で何を食べるか決定する。
自分の感覚と感性を使うことを確認しながらやっていくわけです。
そうしたことに10年かかってしまいました。
信仰は霊性の勉強をするには偉大な恩恵があります。しかし必要以上にやると、執着と恐怖に変わる。
そして自分の頭で考えられない人となるわけです。
余談になりました。
一応、お断りしておきますが、私は一切の宗教団体とは関係がありません。
その霊性修行とかも、自主的にやっていただけで、宗教団体は関係ありませんでしたし。
ですが、そうした自分の体験が、何らかの形で誰かのお役に立てるのではないか、と思っています。
信念体系から離れる方法・・それは私は色々語ることができると思っています。
いろんな方法をためし、時間をかけてきたので。
そんな苦労するなら、なんのためにそんな事してたんだ、とか思うかもしれませんが、
針が振り切れるくらい信じ切るという体験でしか、得られない叡智というものがあります。
宗教とか信仰とかいうと、現代社会では多くの人がバカにしますが、
そうした人たちは、その信仰や宗教で得られる強靭な精神力と叡智を知らないのです。
折口信夫が生き生きとした熱心な信仰がなければ意味がないということを言っていたと思いますが、
宮沢賢治が抱いた信仰や坂口安吾が抱いた信仰など、
そうした人々が熱く抱いた信仰というものが彼らをどれほどに真理に近づけたかを理解すれば、
信仰でしか得られない叡智というものがあるのだということが理解できるのではないかと思います。
信じ切ること、そしてそこから離れること、その両方ができた今、
信仰生活によって得られた叡智というものは私にとって、
真の意味での叡智となっている気がします。
それは縛りでも恐怖でもなく、盲目でもない、真の叡智となっている気がしています。
余談になりました。
水晶は奥が深いです。
そこで見るビジョンは、その人の人生観とか霊性とか色んな物が反映しているのではないかな、と思います。
等身大の自分以上のもの、自分以下のものは見ない気がします。
吉田結妃さまが、私が強烈なビジョンを見ている、と書いていましたが、
http://ameblo.jp/yumikoyoshida/entry-11583000123.html
そんなことはありません。爆
水晶のビジョンはいつも淡々としていて、とても客観的です。
とても淡々としています。
宇宙人とかがいっぱい出てきて、ヘミシンクとかではなかなか簡単にいけないような
外宇宙的なものが楽に見れる感じです。
ヘミシンクとかヒプノとかですと、
思いっきり人間ドラマのその渦中に入り込むことがありますが、
入り込まないと理解できなことがありますので、それはそれでとても重要なことだと思っています。
しかし水晶はそういう感じではありません。
どんな場面も実に楽しい感じなのです。