セッション中にみる模様について・自分のクラスターを見ること

昨日はまた午後のセッション中に紙に模様をみた。
昨日の模様は水色で書かれていた。
今度はもうそのことに耐性があったので、
その模様を見ながら、
「昨日のとは模様が違うな」などと思うほど余裕があった。
でも模様が細かく複雑だったし、水色で水彩画のようだったし
なぞることは断念した。
ここでこの模様を紙に書いたりしてたら、
「セッション中なのにいけないよ」という思いがして、
一昨日はこの模様を描かなかったことを後悔したけれど、
昨日は常識的に「今は仕事中なんだから」という理由でやめた。
でも今となってみれば、描いておけば良かったような気がしたりするような。
なぜならそんな模様は普段は見ようと思っても見れないし、
複雑な模様はその詳細は記憶からどんどん遠のいてしまうからだ。
今日も朝から晩までセッション三昧なので、もし模様がみれたら、
ちょっとでも描いてみる努力をしてみようかと思う。
だがしかし、だいたいセッション中にそんな余裕はないと思う。
クライエントさんの意識の旅に追従しながら、
三手先を読みつつ誘導している私にそんな余裕はないのだ。
昨日のクライエントさんは
クラスターという言葉もしらなければ、そうした概念も存じ上げないにもかかわらず、
とても上手にご自身のクラスターをご覧になっていた。
とても知覚の優れた方である。
自分のクラスターを見るにはこう誘導すると効果的なんだなというのを
最近のセッションで私は獲得した気がしている。
必ず、あの場所にああいう風に誘導すると、
自分のクラスターを見るという結果を得てる。
クラスターなどという言葉を使わなくても、
それを見よと言わなくても、
自分のクラスターを見て体感するのだ。
その誘導法は企業秘密なので、ここでは明かせない。
自分のクラスターを見るというのは、とても有意義だと思う。
私は自分が自分のクラスターを見た時に、とても気が楽になった。
「まぁ、ここにこういう仲間がいるなら、別に地球生活がどうであっても、ま、いいか」
みたいな気分だ。
ま、いいか、というのも変だけど、ま、いっか、と思えないから人は苦しむ。
結果を残さねばとか、お金もちにならねばとか、
結婚せねばとか、なんとかせねばとか
いろんな「こうしなきゃいけない」というような思いは、
ただただ、自分の不足感からおこる。
何が不足なのか。
自分が不安定で守られてない、認められてない、承認されてない、
愛されてない、自分の価値が守られてない、
そんな不足感があるからだ。
そんな思いはなぜ起こるのか。
それは私たちが自分のクラスターから飛び出して、
ここに肉体という殻に閉じ込められたことによる孤独感があるからだ。
もっと安全で守られて、自己という存在すらあいまいな世界にいた私たちにとって、
自己を嫌というほど認識させられるこの肉体の中での生活は苦痛に満ちているともいえる。
なので、自分のクラスターを見て体感するのは
とても癒される。
ああ、こんな場があるなら、まぁ、どうでもいいか、という気持ちになれる。
ちょっとすれば、またここに戻ってくれると思えば、80年くらい身体に入ってることなど
たいしたことではない。
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