かつて、ヘミシンク創始者のロバート・モンローは、
体脱を100回近く体験して、体脱した世界を詳細に書き留めたのだが、
彼はその探索において、信念体系領域というものを発見した。
そこには、生前に何かの宗教に凝り固まった人や、
もう終わっているはずの戦争を今でも続けている将校など、
輪廻のサイクルに入れなかった人たちが、
その信念体系領域で留まっていると言っている。
でも、よく考えてほしい。
輪廻のサイクルに入らずにある領域にとどまることは、
チベットの使者の書的には、生まれてこないのが正解なわけだから、
信念体系とはいえども、生まれてこないでそこにとどまっているのは、
チベット仏教的には正解ってことにならないだろうか。
「もう、私たちは生まれないんです、ここで同じ神を信仰する人たちと一緒にいます!」
っていう事なのだから、別に悪くはないような気がしたりもする。
でも、ヘミシンクの人達はその人たちを救うために、
その領域に行き、助けるのだ。
その事にどのくらいの意味があるかはわからないと、当時も思っていたが、
しかし、私もそれをやっていた時は、
本当に感動的な体験がいくつかあった。
今でも脳裏に焼き付いている、沢山の場面がある。
洪水で神殿に取り残された民族。
そのまま水没したが、霊体はそこに何千年もとどまっていた。
子供も老婆も、当時のまま、その生活がそのまま。
その光景を見ただけで、私は嗚咽して泣いた。
エアーポケットのようなその空間で、
純粋に毎日を送る人々を、見つけてしまった時の、
気の遠くなるような感慨深さは、
人類が誰も入れない山の頂でひっそりと咲く野の花を見つけた時の胸を打つ感動と、
似ていた。
しかし、今の私にとって、
それがどんな意味があったか、
私は何を探索したのか、誰とあったのか、
何を見たのか、
今の私には、その意味がすっかりわかる。
わかるようになったのだ。
わかるようになってしまったのだ。
わかるようになってしまったら、
ただただ、美しさに酔いしれることはもうできない。
芸術鑑賞のような探索には意味がない。
今のわたしには、まったく別の探索システムが必要なのだ。
それをどうしようか、
とても悩む毎日なのだ。
それは、わたしをとても途方に暮れさせるのでございます。
探索は、芸術鑑賞では終わらない。
終わらせられない。
そう、今まではただの芸術鑑賞会だったのだ。
わたしは、
わたしを呼ぶその、
その声をたよりに、
つぎにすすむだろう。
わたしはあきらめていないのだ。
わたしはあきらめていないのだ。
その先へいこう。