「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」
宮沢賢治の言葉です。
世界全体ということを考える時、
宮沢賢治の時代には、テレビはありませんでした。
宮沢賢治は1933年に亡くなっています。
日本で初めてテレビを実験したのが1939年です。
そして、全国放送がはじまったのが、1953年です。
かなりつい最近ですね。
たった68年前です。
その時は、きっと、これから新しい時代がはじまる!!!って
日本全国民が思ったことでしょう。
今やインターネットで世界どこにいても繋がれる時代になりました。
今の私達にとって、世界とはまさに世界。
しかし、宮沢賢治の時代の世界とは、
想像の域をでない世界だったと思います。
見ることもない、映像で見ることもない「世界」というもの。
写真でちらと見ることしかできない、
その「世界」とはまさに妄想のようなもの。
体験のすることのないものでした。
それは、つまりは、
今の私達にとっては、
月の世界と同じようなものではないでしょうか。
月や火星と同じ。
ときどき写真などでみることはあるけれども、
行くこともできない、感じることもできない世界。
今は、それでも映像などで見ることができますから、
宮沢賢治の時代では、それは、
それよりももっとわからないものが「世界」だったと思います。
そうした宮沢賢治くらいの時代の人にとっての、
「世界」とは一体なんだったのでしょう。
その状態で、最大限に理解できるのは、
日本全国民くらいなものだったのではないかと思うし、
それさえ、今のようにリアルタイムで
状況や情勢が映像で流れてくるわけではありません。
私達にとって、理解できないもの感じ取れないものは、
「世界」ではないのです。
私達にとって、火星で今爆発がおきても、
それは私達の「世界」ではありません。
つまりは宮沢賢治にとって、「世界」とは、
「この地域全体」とかそのくらいのものだったはずです。
ここでいう「世界」とは
「自分の置かれている環境全体」とかそういうことではないかと思うのです。
そこに責任を持てよ、みたいなことではないかと思うのです。
では、自分の置かれている世界全体に責任を持つってどういうことなんでしょう。
さて、満月祭が満席になっています。
増席しましょう!
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