私達の心に流れる人生劇場

私達は、おそらく、個人が自分の宇宙で生活しているというのが

本当のところだと思います。


同じ現実を目の前にしていても、100人いれば、100通りの現実がある。


同じ現実を体験している人は、ひとりとしていないのです。

では、自分が体験している世界とは一体なんなのでしょう。


たとえば、生まれた瞬間、私達は、

「ここが世界だ」と思っただろうと思います。

「ここが世界だ」というその世界に、

お父さん、お母さんの二人がいた人と、

お父さん、お母さん、お姉ちゃんの3人がいた人とでは、

「世界」の構成要素が、最初から違います。




この最初から違う、ということがわかるのに、

どれだけの歳月がついやされたでしょうか。



私は第二子なので、

第一子さんの「自分のものなど、あって当たり前」という感覚が、

ずっとずっと、理解できませんでした。

「あって当たり前なのに、どうしてないの?」という感覚。。


それは、

お父さんお母さんの関心を、

独り占めする時代があった第一子にとって、

第二子の出現は、

並々ならぬ奪われた感だろうし、

その奪われた感を埋めるために、

第一子は人生の時間を使う。

第一子さんはそうした喪失感と戦っている。

「あって当たり前のものを奪われたので、奪回する」

というストーリーを第一子は生きている。

それは小公女セーラのようだし、

ラーマーヤナのシータ姫の奪還劇のようだ。






第二子は、前提が「自分のものなど、なくて当たり前」だし、

手に握っているものは、第一子に奪われて普通だし、

あるはずのものを取り返すという第一子の感覚とは全く違い、

ただ生きていただけでは、もともとゼロ以下という世界観だ。


生まれてから、一度も、

たったの一度も、

親の愛を、完全に独り占めした経験のない第二子にとって、


世界は、なんとか知恵を絞って自分を守り、生き抜くための戦場だ。

一度も親の愛を独占した経験さえないのにもかかわらず、

第一子には「おまえおれのものを奪ったな」と思われ、

お前などおもちゃなど持つ権利などないのだと奪われる。


そう、第二子は、普通に生きていたら、

何も独り占めできるものなどないことを、

この世界に生まれた瞬間から、

何度も何度も叩きつけられるので、

とにかく知恵をつけ、力をつけ、実力をつけ、アピールする力を身につけ、

世界に挑むのだ。

第二子は下克上劇の中を生きている。それは田中角栄的だし、豊臣秀吉的だ。





こんなにも生まれた瞬間から「世界」が違うのに、

同じものをみても同じ反応ができるわけがない。


つまり、私達が世界と思っているその世界は、

ただただ、自分の奥底に流れる、人生劇場でしかない。


29日満月祭行います!

お申し込みはこちら。

https://www.reservestock.jp/events/545591

ラーマとシータ







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