とかくいろんな心配事が頭をかすめる世の中だが、
昨日も書いたのだが、
自分を信じるのではなく、相手を信じるのでもなく、
自分の才能や、能力を信じるのでもなく、
自分の善意を信じるのでもなく、
自分の無意識ちゃんを信じる、
そういう風に思考すると、
ふっとラクになるものがないだろうか。
私は楽になる様な気がする。
既存の宗教が、キリストが仏陀が、自分のエゴを捨て去れよ!と言った先に、あるもの、
エゴの向こうに自我の向こうにあるものは、「無意識ちゃん」だろう。
つまりはそうしたエゴや自我のもとではこの無意識が発動しないということでもある。
信じるものは、本当は他人でも自分でもない。この「無意識ちゃん」だ。
無意識には自分も他人もない。それは広大な海のように存在している。
つまり、外見からは他人も自分も信じているかのように見えるかもしれないが、
本当はそうではなくて、この無意識を信じているのだ。
クリシュナ神がアルジュナに「戦え!」と言った瞬間に、
「自分と世界」この両輪ががっちりかみ合って、世界が動くように、
戦う時に信じるものは、自分の無意識なのだ。
戦いに挑むのが自分のエゴなどとは思ってはいけないし、
自分の良心さえ乗り越えないとならない。
そう、無意識を信じるというのは、
時に自分の良心さえ乗り越えなければならない。
アルジュナは苦しんだ。戦いたくないと。殺戮はしたくないと。
誰も自分の手で殺したくないと苦しむ。
それでもクリシュナ神はいうのだ「戦え!」と。
「今、戦うことが正義であり、神はお前と共にある!」と。
インドの大叙事詩・バガバットギータの感動的なクライマックスである。
私は、実はあまりたぶん、欲とかあんまりないんです。
こうしたいとか、ああしたいとか、
こうあらねばダメだとか、自分に関しては
ほとんど何もないに近い。
アルジュナがクリシュナの駒であったように、
私も自分が駒だと思う。
そう思うようにしている。
大きなチェスの駒。チェスをしているのは神で、
自分は駒にすぎない。
自分が駒だと思った時に、
自分の意向などどうでもいい。
他人の意向もどうでもいい。
そして駒は、同じ目的を持った人としか
一緒には活動はできない。
普通の社会はそうではない。
違う人と一緒にいることに意味がある。
いろんな人やいろんな情感に触れることに意味がある。
しかし駒はそうではない。
そんな部分に、もう興味はないのだ。
そして、より大きな目的に組み込まれていくのだ。