昨日のセッションでクライエント様からグラウンディングについてのお話しを伺いました。
なるほど・・と思ったのでここに書きたいと思います。
スピリチュアルな人たちがいうグラウンディングというのは「今、ここ」に代表されるようなことだそうです。
今ここにない、今目の前にない不安や恐怖を抱くことを、グラウンディングできてない、というそうです。
なるほど、それが「今ここに魂がないよ」という状態なのですね、と思ったのでした。
私は思う。
その「今」というのは、時間的な「今」なのだとおもうのだが、人には時間的「今」は与えられていない。
「今」はいつでも過去の集積体だ。
自分の過去をゼロにして「今」をみることはほとんどムリだ。
今、みなさんが目にしている文字も、過去から学んできた知識の集積があるから文字が読めて文章がわかる。
友人の顔も、親の顔も、過去から結んできた人間関係があるから、その人だと認識する。
その過去をゼロにして「今」みることなんて不可能だと思わないか。
もちろん、その不可能だと一見感じられることを可能にしていくのが、心理学的な様々なアプローチなのだ。
それが催眠療法であったり、NLP(神経言語プログラミング)だったり、ゲシュタルト療法だったり、エリクソン催眠だったり。。。
その書き換えた潜在意識で「今」をみれば、もっと違って「今」は見れるのだろう。
でも、私が提案したいのは、「今」に執着しなくていいのではないか、ということだ。
「今、ここ」 は いいけども、
この「今」が辛いから、みんな苦労してるんではないか。
今この瞬間にも、夫に怒鳴られ、子供は兄弟喧嘩で泣き叫び、イライラっとした状況下で、
今ここ、と言われても、どうかな、と思う。
「今」が客観的に平安な人はいいかもしれない。
「ほら、みてごらん、今は平安でしょ。何にもあなたがかんがえてるようなことは何もないのよ」
そうかもしれないが、本当に現実を見れば見るほど、この世はいろんな可能性に満ち溢れていて、
たとえば、この瞬間に地震がくるとか、この瞬間に隕石が落ちてくるとか、
そんな可能性にびくびくして生きるのは、確かにグラウディングできてないのだろうが、
「今」を生きようとすればするほど、
そうした、可能性も「現実」ではないのか、その可能性すら「今」ではないのか、と屁理屈を言いたくなる私であった。
そう考えると、「今、ここ」というのは、そうした可能性を全部排除して、
未来も考えない、過去も考えない、「今を見てください!!」という事なのだろうが、
それってよく考えてみてほしい。
それが本当に「今」だと、理解できるのだろうか。それは本当に正しい「今」なのだろうか。
私がもし「今、ここ」ということを思うならば、
それは未来や過去を考えない事ではなくて、むしろそれ全部を包括すべきではないのか、と思う。
「今」というのはどう考えても、過去と未来の中心点だ。
過去と未来がなければ「今」は存在しない。当たり前だ。
過去や未来を見なければ、今がどこかはわからないはずだ。
つまりは過去と未来を全部見渡す目がなければ、今ここ、は認識できない気がする。
そう思って、まさに今この瞬間、「今、ここ、この瞬間」というようなサイトを検索してみてみた。
どれも、今この瞬間に宇宙と繋がるのだ、ということが書いてあったりする。
ほぉ~そうなのか~。
ならば、
「今ここ」 = 「宇宙と繋がる。」
「今ここ」= 「グラウンディング」
よって、
「宇宙と繋がる」 = 「グラウンディング」
という論理学みたいな数式が出来上がる。
え、なんか、数式間違ってる?
あってるよね。
あ、グラウンディングって宇宙と繋がることだったのか。そかそか。
なんだ、やっぱり、そうじゃないか。
つまりは「今」といのは、宇宙的な視野がなければ、「今」は認識できないはずだ。
それには限りなく魂を飛翔させなくてはいけないみたいだよ。