アッシジの聖フランチェスコ 2

アッシジの聖フランチェスコは
「ブラザーサン・シスタームーン」という映画に
とても美しく映像化されている。
心の底から洗われるような美しい映画です。
515C4CBYM3L.jpg
アッシジの聖フランチェスコにしても、コルベ神父にしても、
こういう人たちは、美学が違うのだと思う。
人間として生きる、その生き方の美学を、
生と死を超えて追求した芸術家だと私は思う。
そう、命の芸術家なのだ。
その生き様のあまりの美しさに、深い感動を覚えずにはいられない。
リストが聖フランチェスコに強く感銘を受けた理由がよくわかる。美しいのだ。
フランチェスコは1181年もしくは1182年に、
イタリア半島中部ウンブリア地方のアッシジで生まれた。
裕福な織物商の息子として生まれたと言われている。
青年になって軍隊に志願したが、途中で病気にかかり、病床で神の啓示をうけた。
神の啓示。。。これは必ずといって良いほど、こうした人にはでてきますね。
神の啓示というと何やらものすごいことみたいに思えるけど、
たぶん私達は毎日、啓示を受けているはずだ。
それに気がつくか気がつかないかの問題なのだと思う。
ヘミシンクでもヒプノでも水晶でも、
そうしたものにチャレンジして、故意に変性意識に入って、
能動的に啓示を受けようとしたとき、
あんまり芳しくないな、と思う時も数多くあるけれど、
ある日、ある時、「これだ!!」というような圧倒的な啓示を受けることがある。
それは年がら年中、受けるわけではない。
でも、懲りずにあきらめずにチャレンジしていると、
或る時、「これだ!」というものに出会う。
それは、多くの人には話しても理解されないかもしれない。
しかし自分の中では決定的な圧倒的な啓示である。
その興奮は人の人生をがらりと変えてしまう。
私も、このアッシジの聖フランチェスコほどではなかったかもしれないが、
そうした体験をしてきたし、そうした人は意外に沢山いるのではないかと思う。
ただ、誰にも理解されないので、話さないだけだ。
啓示を受けた人は、その後の人生をがらりと変え、そしてその後、
この人生を生き抜く強力なエネルギーをチャージされる。
そうした啓示を得て、聖フランチェスコは全てを捨てて清貧生活に入り、聖堂の修理などを始めた。
映画ではここでとても美しい歌がはいる。


Brother Sun and Sister Moon,
I seldom see you, seldom hear your tune
Preoccupied with selfish misery.
Brother Wind and Sister Air,
Open my eyes to visions pure and fair.
That I may see the glory around me.
I am God’s creature, of him I am a part
I feel his love awaking in my heart
Brother Sun and Sister Moon
I now do see you, I can hear your tune
So much in love with all that I survey
ブラザーサン シスタームーン
その声はめったに私には届かない
自分の悩みだけに心を奪われて
兄である風よ
姉である空の精よ
私の目を開いておくれ
清く正しい心の目を
私を包む栄光が
目にうつるように
神に与えられた命
私にも神は宿る
その愛がいま
この胸によみがえる
ブラザーサン シスタームーン
今こそ
その姿に触れ
その声を耳に
そして胸を打つ
あふれるこの愛

この歌詞はフランチェスコの太陽の歌をもとに作られたのだろう。
太陽の歌
神よ、造られたすべてのものによって、わたしはあなたを賛美します。
わたしたちの兄弟、太陽によってあなたを賛美します。
太陽は光りをもってわたしたちを照らし、その輝きはあなたの姿を現します。
わたしたちの姉妹、月と星によってあなたを賛美します。
月と星はあなたのけだかさを受けています。
わたしたちの兄弟、風によってあなたを賛美します。
風はいのちのあるものを支えます。
わたしたちの姉妹、水によってあなたを賛美します。
水はわたしたちを清め、力づけます。
わたしたちの兄弟、火によってあなたを賛美します。
火はわたしたちを暖め、よろこばせます。
わたしたちの姉妹、母なる大地によって賛美します。
大地は草や木を育て、みのらせます。
神よ、あなたの愛のためにゆるし合い、
病と苦しみを耐え忍ぶ者によって、わたしはあなたを賛美します。
終わりまで安らかに耐え抜いく者は、あなたから永遠の冠を受けます。
わたしたちの姉妹、体の死によって、あなたを賛美します。
この世に生を受けたものは、この姉妹から逃れることはできません。
大罪のうちに死ぬ人は不幸な者です。
神よ、あなたの尊いみ旨を果たして死ぬ人は幸いな者です。
第二の死は、かれを損なうことはありません。
神よ、造られたすべてのものによって、わたしは深くへりくだってあなたを賛美し、    
感謝します。

アッシジの聖フランチェスコはいわゆる教義や伝統、そうしたものを突き抜けて、
真理を自分でつかんだ人ではないかと私は思う。
しかしそれでも、彼はその後、キリスト教会という巨大なモンスターを相手に、
自分がしだしたことがだんだんと組織化して行った時に、
純粋な霊的な自分と、組織や教義のギャップに悩み苦しむのだ。
そうしてだんだんと組織から距離を置こうとしていった。
宗教は組織化した所から信念体系が始まるといってもいいかもしれない。
「宗教の教義など信仰しても意味はない」と口で言うのはたやすい。
私はこの言葉を自分が本当に理解するまで、
何年もかかった。
それは信念体系です。と言ってしまうのは本当にたやすい。
そこに神などいない、自分でその教義にたどり着くんだ、と
頭でわかっても、身体はなかなかついてこない。
何度も焦り、もうだめだと思った。
つまりは霊性というのは、自分の感性や、
自分の霊的ツールを使わずにその道に入ることはできない道であり、
組織や教義に頼ると、自分の霊的ツールを使わなくなるゆえに、
信念体系にハマってしまう、ということが起こるのだと思う。
誰もが自分のツールを持っているはずなのだ。
そのツールを見出さなくてはいけない。
そして、繰り返し繰り返し、
本当のことが知りたいと求め続けるかぎり、
私たちを守る霊的存在達は、
必ずそこへ導くのである。
決してあきらめてはいけない。
えっとリストの曲になかなかたどりつけません。
また明日!!

  • このエントリーをはてなブックマークに追加