聖フランチェスコと全托

ヘミシンクではキリスト教徒などの信者は信念体系に引っかかりやすいと言われている。
確かに、あれしちゃいけない、これしちゃいけない・・という教義では、
人が本当の意味で神を信じることを妨げていると思う。
神を信じるというのは、自分を信じるということに他ならない。
自分を信じるといっても、それは「この私」を信じるのではなく、
「この私を維持している霊的私を信じる」ということだ。
「時間と空間を超えている霊的私を信じる」ということだ。
まずは、そうした「霊的私」を認識しなければ、信じることさえできない。
それには、意識を教義に持って行ってはいけない。
自分で教義の根源、神の根源にたどり着かねばならない。
自分でその根源にたどり着くには、
他人の作った教義を信じてるうちは、自分に内在する教義にたどり着けない。
そしてそれにたどり着けない限り、本当の意味で神を信じることにはならないのだ。
ようするに、教義にハマっている以上、神を信仰していることにはならないと言える。
リストが聖人の「信じることの強さ」に感銘を受けて
「小鳥に説教するアッシジの聖フランチェスコ」
「波を渡るパオラの聖フランチェスコ」という2曲を書いている。
 アッシジの聖フランチェスコの「平和の祈り」は
 マザーテレサが愛したことで有名である。
 
 「平和の祈り」 
 わたしをあなたの平和の道具としてお使いください
 憎しみのあるところに愛を
 いさかいのあるところにゆるしを
 分裂のあるところに一致を 
 疑惑のあるところに信仰を
 誤っているところに真理を 
 絶望のあるところに希望を
 闇に光を 
 悲しみのあるところに喜びを
 慰められるよりは慰めることを
 理解されるよりは理解することを
 愛されるよりは愛することを 
 わたしが求めますように
 わたしたちは 与えるから受け 
 ゆるすからゆるされ
 自分を捨てて死に
 永遠のいのちをいただくのですから

 
 ここでいう永遠の命というのが、霊的私であり、
 自分を捨てて死に・・というのが、「この私」という部分であろう。
 
 自分の意識をどこへもっていくのか、それがとても重要であり、
 私達は大きな宇宙や自然のなかで、
 「この私」が小さい小さいものであるという
 認識ができればできるほど、
 心の平安が得られるということを示唆しているように思う。
 どのような信仰でも(仏教であろうと、キリスト教であろうと)
 「全托」ということを求められる。
 全托とは、
 「全ては神の御心のままに」ということだが、
 私は自分に内在する「霊的私」に
 全てを任せるということだと思っている。
 
 宗教の教義などに全托なんかしても意味ないのだ。
 
 神はどこにいるのか。
 神はどこか遠い空の上になどいない。
 
 神は生まれてから死ぬまで
 私たち一人一人の内にいるのだ。
 決して忘れられもせず、無視もされず、
 愚痴もいわず、
 毎日、私達のために働いている。
 自分の中に神がいることを認識できたとき、
 「私の中の霊的私」ということを認識できたとき、
 それは自分が尊大になることではなく
 逆に私達は、小さく小さくなっていく。
 「この私」はひたすら小さくなり、全てが神の御心のままとなる。
 すべては「霊的私」の導くままになる。
 それがこの「平和の祈り」であると思う。
 。。。。実はリストの曲について書こうと思ったのだが、長くなったので明日にします。
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聖フランチェスコ。 頭が河童・・のようである。
実は河童だったとか。。。
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