音楽家は音楽を奏でながらどこへでも飛ぶ。
それは音楽家ならば、誰でもすることだ。
音楽家は常に世界中を旅する。
それは心で、意識で旅をする。
その曲から当時の生活から当時の人々の息吹まで、
感情から思想まで、
そうしたものをすべて読み取りながら演奏するのが音楽家だ。
それは音楽家であれば当たり前のことであって、
100人の音楽家がいれば100人がすることだ。
音楽家ならば、あまりに当たり前のことであって、
そうした能力をいちいち特別視する感覚が私にはわからない。
それは普通に、誰でもそのくらいのことはしている。
音楽家は、時間と空間を超えるためにどれだけ努力してるかご存知だろうか。
どれだけそのために訓練を積み、どれだけの時間をそれに費やしているかご存じだろうか。
曲から自分の霊感を使って読み取ることは当たり前だし、
それだけでは自分の思いこみの演奏になる。つまりはノイズだらけの演奏になる。
そう、自分の霊感だけではノイズだらけなのだ。
そのことを音楽家は知っている。
それを矯正するために、
あらゆる文献を読み、
当時の生活をしり、
さらには作曲家の生まれた家やらお墓まで足を運ぶ。
そうして、その音楽が生まれた国までいき、何年も留学したりする。
全ては正しくダウンロードするためなのだ。
そのくらい、正しくダウンロードするというのは大変な事である。
勝手な思い込みというものを、音楽家はものすごく排除する。
そのために、自分を捨てる、自我を抹消する、
ただひたすらにそこに音楽がある、ということに没頭する。
内田光子は言っていた。
「観客は私の音を聞きに来る人もいるけど、私は私の音など奏でたいと思っていません。
むしろ私の音など奏でたくないのです。
私は、ただそこに作曲家の意図したものを
そのままを正確にそこに再現したいのです。その空間に浮かび上がらせたいのです。」
これは音楽家ならば誰もが思う事である。
これこそが本物のダウンロードというものだ。
しかし、自我を捨てるというのは簡単なことではない。
音楽にただ没頭していけば、その境地に行けるか、というと
私は多分そうではないと思っている。
ただ、「私を捨てます」みたいなことでは
自分のことは全部横において、棚に上げて、ダウンロードというのは無理なのだ。
何故無理か、、それについてはまた今度。
注意していただきたいのは
ここでの話は、音楽家と正しいダウンロードということについての話だ。
ノイズをノイズのままそこに置いておいていい世界がある。
それは、自ら作曲する人とか、
作家さんとか、
絵描きさんとか、
そうした人の仕事は、
ノイズがあったほうが良いし、
自らの色が出たほうが良い。
それがなければ、つまらない。