自己を取り戻す。

私はなんとなく、
そう思ってもいないくせに、「そう思ってました」とか、
わかってもいないくせに、「わかるよ」とか、
そういう言葉が好きじゃない。
それは、ただ誤魔化しているだけだからだ。
なんだかわからないものにして、
ただ誤魔化そうとしている。
私が論理的にこうだとおもうことを話していると、
私の母はかならず、脳みそフリーズした顔をする。
「かんがえたくありません」という顔だ。
この「かんがえたくありません」という顔は、
母以外の人の中でも時々発見する。
こうしたことはどうして起こるんだろう・・。、
なにが「かんがえたくない」のだろうか。
だいたいにおいて、
「かんがえたくありません」という顔は、
自分を非難されているという意識が起っているように感じる。
誰もあなたを非難なんかしてないのにだ!
例えば、ピアノの演奏が上手くいかなければ、
どこがどう悪かったかを分析するのは
非常に必要なことで、
それができなければ、絶対に向上しない。
そして、2度と同じ間違いをしないようにすることが上達のコツだ。
この時、どこがどう上手くいかなかったかを、
生徒に伝えることは、別に生徒を非難しているわけではない。
ピアノの演奏と生徒自身は別だからだ。
これは人が語った言葉とかも同じだと思う。
人間関係において、誰かが自分に何かを言ったとする。
それが自分にとって言ってほしくない事であったならば、
それは「こういう理由でそれは言ってほしくない」と告げるのは当然のことだ。
その人間関係を向上させようという意識があるのあらば、
それは相手に告げた方がいい。
しかし、それを告げられたからといって、
どうして、相手を非難したことになるのだろう。
それは全くの見当違いじゃないだろうか。
いつでも何か言われたら、自分の存在を否定されたと感じる人は、
どうやって人生を向上させるのだろう。
こうしたことは共依存と関係していると思う。
共依存とは、自分のアイデンティティを築くことができなかったアダルトチャイルドが、
大人になって、自分自身というものがないがゆえに、
他人の価値観を自分のものとして生きる人のことをいう。
自分のアイデンティティを失っているがゆえに、
他人が良いと思ったものを良いと思い、
他人が良くないと思ったものを良くないと思い、
そうすることでしか自分を保つことができない。
こうした人は、誰かと何かを分かち合うことができない。
そもそも、他人と分かち合うべき「自己」というものがないからだ。
おそらく「かんがえたくありません」という顔は
アイデンティティを失っている時の顔なのだ。
また、何を言われても「私もそう思っていました」というようなセリフも
アイデンティティを失っているのだろう。
そして、人と分かち合うべき「自己」というものが喪失しているがゆえに、
本当の親交というものが築けない。
でも、残念に思うことはない。
アイデンティティというものは、
意識的に、意図的になりさえすれば、
からなず取り戻すことができると私は思う。
自己というものを100%失う人はいないと思う。
%がいかに低くとも、必ずその奥に自己があり、
それは意図的に意識することで取り戻せる。
そして、どんなにアイデンティティを失っていても、
誰も、あなたを非難していない。
非難されるべき自己など、この世にあるわけがないのだ。
しかし、その「自己を取り戻さないこと」は非難されても致し方ない。
共依存した人は、話をしていても、
誰かのコピーか何かのマネでしかないからだ。
人はコピーやマネの塊と話がしたいとは思わない。
それは嘘やごまかしと同じだ。
誰もが本当のあなたというものに、出会いたいと思っているのだ。

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