人生は盲点に振り回される。

おっとぉ~!

もう6時になっちゃって、ブログ更新をどうしようかと思うんだけれども、
書きたいことは山ほどあるのだ。
(そんな自分がちょっと怖い。爆)

なんでこんなに書きたいことが次から次へと出てくるのかが不思議すぎるだろう?

それはたぶん、小さい頃に
わたしの話しを聞いてくれるような人が誰もいなかったからだ。笑

でも、わたしの中には発見と情報であふれかえっていた。

2014年11月14日 私は、「マラソンと盲点」 という記事を書いている。

マラソンにはゆっくり走ると早くなるという本を書いてる人もいて、
私はこの話しをよくよくピアノの生徒にします。
ピアノも鍵盤の上でのマラソンみたいなものなのですよ。
ゆっくり弾けるとだいたい、必要な筋力が鍛えられる。
でも、早く弾いてると本当のコントロールというのが養えません。

こうしたことは、心の世界や意識の世界でもいえるのではないでしょうか。
私たちはただただ、素早い思考の渦にいる事が多い。

それをゆっくり、ひも解くように思考する訓練をすると、
本当の意味での思考に必要な筋肉が鍛えられるようになる。

一つ一つひも解いていく。
そうすると、本当の意味での心の柔軟性がついてきます。
ピアノで、よくないのは、ここは弾けるからといって、
弾き飛ばす感覚、これがとても命とりです。
そここそが演奏の盲点になる。
必ずなるのです。
どんな場所にも最初から弾ける場所はない、と思ったほうが良い。
この盲点がすべての演奏の鍵となっているのです。
そこを重箱をつつくかのように一つ一つ
ひも解くように練習したほうが良いのです。

これは思考も同じです。
小さい時のことなど、もうわかり切ってるから、もう考えたくない。
とすると思考が飛んでしまいます。
そこに見えない盲点ができる。
そうすると、そこが人生の大きな問題点になってしまいます。
その盲点にコントロールされ続けるような感じです。

私たちが、人生のブロックになったり、
何か今一つアクセルを踏めない理由は、

大抵、子供の頃の、とても小さな、でき事だったりします。
それはとても小さな出来事だったりすることが多いです。
自分でそれに気が付いた時は、おどろくような小さな出来事だったりします。

「アイスを買いたくて、親にお金ちょうだい、といったら、嫌な顔された。」

とか、そのくらい、どうでもいい事だったりします。
でも、その小さな出来事が、雪だるまのように沢山の出来事と絡みあって、
今では巨大な信念体系になってることが多いのです。

だから、「こんなつまらないこと」

では済まされないのですよ。

どんな小さなこともヒドイ体験だと思え、ということではありません!

ヒドイとか酷くないとかではなく、
自分がその家庭で育つことで、
どういう信念体系が形成されたかが重要なのです。

その信念体系にはネガティブもポジティブもありません。

ポジティブであっても信念体系ですし、
ネガティブであっても信念体系です。

それがポジティブであっても、ネガティブであっても、
一度、客体視する必要があります。

なぜなら、どんな信念体系であっても、
あなたはそれにずっと振り回されているからです。

振り回されている以上はロボットなのです。

盲点にコントロールされ続けるのですよ。

レッスン23は後で追記更新します。(いま、時間なくなった。)
ロボットの話も中途半端っぽいので、後で追記します。

はい。

レッスン23です

レッスン23は

攻撃的な考えを放棄することで、
わたしは自分の見ている世界から脱出できる。

まぁ、本当に、これは水素96の世界から抜け出す時には必要なワークでしょうね。

ただ、水素24にいる人にとっては、
攻撃的考えがあったとしても、
それそのものが、専門家的サトリへの導き手なので、
そこを勘違いしないで欲しいと思います。

このワークは万人に有効というわけではありません。

ただ、普通の人には、普通に有効です。(爆)

普通じゃない人・・
(それは本気で自分の人生を生きようと思っている人)

たとえば、野球選手が、
何としても記録を達成したいと思って訓練を重ねているとします。

その達成したいという思いは攻撃的です。

しかし、その攻撃的思いこそが、
練習に没頭させ、専門家的サトリへと導き、
そこから神に至る。宇宙に至ることを思えば、
水素96や水素48の人には必要なワークも、

この水素24の人にとっては、必要ではないワークです。
むしろワークが害悪です。
水素24の人の道を阻害します。

真理はいつでも画一的ではありませんね。

昔、シスパラはクリシュナ神を憎み続けて、
神を憎んで憎んで、最後はクリシュナ神と融合しました。
憎み続けるそのエネルギーこそ、
それこそ神と一体になるにふさわしいエネルギーだったのです。

凡人は、普通の人は、神をそこまで思いません。

でも、シスバラは誰よりも憎むという形で神を思い続けたのです。

そうして、

クリシュナへの激しい憎悪のために、
あらゆる場所で、
寝ても覚めてもあらゆる時間に、
クリシュナのことを思い詰めたがゆえに、

その魂をクリシュナ神に溶け込ませるような輝かしい最期をとげたのです。

攻撃的な思いが悪いとか、良いとか、

真理はそんな画一的なものではありません。

わたしたちは、もっと深淵な世界で生きているのです。

生きることが苦しいか、苦しくないか、

楽か、楽でないか、

そんなことも、どうでもいい事のように思います。

非二元とは、そういうものではないですかね。

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