「ヒプノスクールがんばるよ」って話と、「今こそ、非二元から一元論へ」って話。

みけまゆみさんが以前に、
自分を充電しないと、次に動けないという話をしていましたが、

なんとなく、今自分はその状態にいる気がします。

春からヒプノスクールが始まります。

どういうふうに、どんな感じでやるかについて、
今はすごく考えていますが、
それにあたっての準備が色々とあって、
また、しばらくヒプノスクールに通う感じになりそうです。

ヒプノスクールは、ヒプノを仕事にしたいとか、
または、その知識を取り入れて、人生をより充実させたいとか、
ヒプノを取り入れたワークショップを開きたいとか、

そうした方々に、提供するようなものになります。

誘導もね、
瞑想やリラクゼーションのワークショップなども各地で開かれていると思いますが、
わりと漠然と誘導されてる方もいらっしゃるかもしれません。

どう誘導されても、入れる人は入れるので。笑

なぜかわかりますか?

うん。そんな話もスクールではしていきたいと思いますよ。

漠然と誘導されても入る人は入りますが、
プロとして誘導している側、
スクリプトを作っている側は、
漠然とはしていません。

言葉の使い方、
選び方、
それには、いろんな気配りがされています。

ほんとに、
いいスクリプトには、
ちゃんとした気配りが、そこここにあるんです。

で、誘導とか、誘導のありかたとかをよくよく理解してくると、

この世のほぼすべてが思い込みであることもわかってくるのです。

つまりね、この世の種明かしがわかってきちゃうんです。

これ、体験的にわかってきちゃうんです。

理屈とか、論理とかじゃなく、体験的に。

自分という存在も、自分のあり方も、

思い込みなんですよ。

で、そこで、「だから自分なんてないのよ」、

ってするのが非二元論のかたがたですが、

インドのウパニシャッドでは、

そこで一元論が展開されるわけです。

非二元というのは、キリスト教の

私を捨てて死ぬ、という考えと一致するのだと思いますが、

ここで注目されている「私」は「自我の私」なのだと思います。

一元論の「私」は、自我ではなく、

「真我」アートマンという意味なんですね。

つまり非二元と一元論では「私」の使い方が全然違うんだということに、

最近気がつきました。笑

一元論のほうが「私」の階層が高いです。

だから、話がややこしく、

私が理解できない!

とキーキーいってしまうんだということを最近、理解しました。

自我を滅するというのは、たどり着くべき場所ではなく、

道の途中だと思います。

そして、

そういう修行も、推奨された時代もあるとおもうけれども、

私はそんなことをしなくても一元論に真我にたどり着けると思っていて、

悟りとかって、「私はない」とかいちいち思わなくても、

もっと、自然に、そこここに、満ちあふれてるものだと思うのです。

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