月を鍛えるの話しだが(まだ続くのかよ!)
子供の頃に母親をなくしたり、
小さなときからお母さんの変わりにがんばったというような人は、
本当に子供の頃から月を鍛えている。
自分の母親に頼れないという環境は、実に月を鍛える環境なのだ。
母親に頼れないならば、人はどうなるか。
自力でやるのだ。
この自力の力こそ、月の力である。
そう考えると、
私達のトラウマとか、傷というのは、
多くはお母さんに○○してほしかったけど、してもらえなかったとか、
望んだような愛情がもらえなかったということに起因していることを考えると、
このトラウマも傷も、月を鍛えるためのステップだった、と考えることができる。
子供はなんでもお母さんにしてもらいたい。
お話もきいてほしいし、勉強も面倒みてほしいし、明日の支度も手伝って欲しいし、
ご飯もつくってほしいし、おいしいものも食べさせてもらいたい。
これらの欲求が満たされないときは、
子供はどうするか。自分で頑張るのである。
弟、妹がいがいるお姉さんは、
弟、妹が生まれたことで、
お母さんの愛情が自分だけに来なくなったという体験をする。
このとき、お姉さんに環境から求められるのは、強い自立である。
これこそ月のステップアップであり、バージョンアップする瞬間である。
この体験には傷がつきまとう。
自分の月をすっかりお母さんに預けてたお姉さんにとって、
突然の妹、弟の出現は、嫉妬もするし、
突然に自分のことを自分でせねばならなくなるし、
さらに妹、弟の世話まで頼まれたりする。
でもお姉さんが、自分の人生をかけてここでしようとしているのは、
お姉さんの無意識ちゃんがしでかそうと思っているのは、
月のバージョンアップなのだ!
お姉さんは無意識に思っている。
「ずっと、お母さんに預けてた月を、自分でやろう。」
そういう決意がここにはあるのだ。
でも、これはお姉さんの小さな胸の奥の奥にある、
高次の自分の指令なので、
幼いお姉さんにとっては、
現実は厳しい、みたく感じるだろう。
これが傷になることもあるだろう。
しかし、大人になった今は、
その小さな自分の胸の内にあった、
強い決意に目を向けて欲しい。
「あ、あたし、あのとき、がんばろうと思ったんだな。
お母さんに預けてた月を、自分でやろうと思ったんだな。
月をバージョンアップさせようと思ったんだな。
自力を鍛えようと思ったんだな」
そう思って欲しいなと思う。
昨日はありのまみさんの個展にいってきた。
まみさんの絵はさらにパワーアップしていて、繊細で、
細やかな情感に満ちあふれている。
帰宅後、触発されて神聖幾何学を書いてみた。
さて、どんな仕上がりになるかなー。
この絵には、「高次の月」と名付けようとおもっている。