人って、自分がどういう存在か、
どういうタイプなのか、
何ができるのか、
そうしたことも、
よくわからないで生きる。
生きてきた。
これ、私も例外なく、そうやって生きてきたように思います。
自分が何者なのか。何ができる人間なのか。
でも、それってわかってもわからなくても生きることはできる。
たとえば、自分が社会貢献しようと思わないならば、
普通に今日のおまんまにありつけて、
自分を生きながらえさせて、
今日が普通に暮らせればいい、というのであれば、
自分は何者でもなくていいし、
限りなく自由に、心のままに生きればいい。
子供のように生きればいいのだ。
その日に思ったことを、思ったように、
誰の目も気にせず、
思い煩うこともせず、
ただ、今日を生きればいい。
そういう生き方がしたい人は、すればいい。
そうした人は、銀河教室には来なくていいし、
来る必要もない。
つか、「来るな」って思います。
「別あたってください」なんです。
銀河教室は、
自分を生かしたい、社会貢献したい。
自分の能力を社会で使いたい。
自分の命を燃やしたい。
そうした希求のある人のための教室です。
私が結婚せよ!とか子供を産み育てよ!というのも、
社会に貢献するためです。
あなた、という命を、
この社会に還元するには、
もし、今、
充分な社会的責任を負った重要ない仕事についていないのであれば、
子供を産み育てることが、
一番、大きな仕事になります。
「ゆりかごを動かす手が、世界を動かす」ということわざがありますが、
自分が、この世に生まれてきて、
親に強いた労働、作ってくれたご飯の数々、かけてくれた時間、お金を、
本当に感謝し、その恩を返そうと思うのであれば、
自分が子供を産み育てるのが一番の貢献になります。
そうして、命をバトンタッチしてくことが、
どれだけ大きな貢献かわかるでしょうか。
あなたの周りに、この人素敵だなって思う人いませんか?
この人が生きているだけで、自分の人生が、明るくなるって思える人いませんか?
その人が、そこに存在しているのは、
誰かがその人を、この世に産み落としたからなんです。
誰かがその人を、赤ちゃんのころから、
時間と労力をつかって、育ててきたからなんです。
自分だけ良ければいいのであれば、
結婚も出産もいらないんです。
だって、自由でしょ。
自分の時間を誰かのために使う必要がない。
それがどれだけ快適か、知ってますよ、私だって。
母親は、この世に素敵な人を産み落とす役割を担っている。
産み落とした命が、
誰かの心の、誰かの魂の、安らぎとなり、
誰かの人生の支えとなり、
そうやって、ずっと未来の先まで、
誰かの役にたっていくのです。
結婚するというのはそういうこと。
子供を産むというのはそういうこと。
自分の命を、極限まで使う作業なんです。
もし、子供を産まない夫婦であるならば、
その分の時間と自由を、やっぱり社会に還元していくことに使う。
そうしているご夫婦は、私の親戚にいます。
その叔父叔母は、めっちゃボランティアしています。
里子を引き取ったりもしていました。
ひとりで生きていると、自分だけのことにかまけないとならないですが、
夫婦になると、多くの場合は、時間とお金に余裕ができる。
だから、その部分を社会に還元していくことができるのだと思います。
子供がいたのではできない活動ができるんです!
で、話しがそれてきたのですが、
自分が何ができるのか、自分がどんなタイプなのか、
そして何ができるのか、
こうした探究は、社会貢献しようと、思った時に、
世界の役にたちたいと思った時に、必要となります。
そうじゃないときは、いらないんです。
そうじゃないときは、何ものでもある必要がない。
自由でふらふらしてたらいいんです。
自分のことだけ考えてたらいいいんです。
社会で自分を生かしたいと思った時に、
じゃぁ自分が何ができるのか。
その時に、心が荒んでたりして、
目標とかわからない、
どこへ向かって良いかもわからない、
そんな状態で、どうやって社会貢献できましょうか。
聖書にタラントの例え話があります。
自分の持っているものを使わないならば、
神はその持っているものさえ奪う。
そして、持っているものを使うならば、
神はその者に、もっと実りを渡すだろう、という話し。
15歳の時に、この例え話を読んで、
私はすごくやる気がでたし、
人生とはそういうものなのだと思いました。
自分が自分の命をきちっと使い、
周りに還元してくために、
私の命は与えられていると、
そう思うのです。
銀河教室は、自分の魂と命を使い、
社会に貢献していくことを望む、
そうした人達のための教室です。