ユングと私と曼荼羅と

ユングはフロイトと別れてから、

無意識の研究にはまり込んでいく。

そうして、人の無意識に、

神話と連動したような、

ストーリーがあることに気が付く。

そう、これぞ、

私たちの無意識に組み込まれている、プログラムの尻尾だ。

さらに、ユングは自分の内的体験を、図形として描きだす。

ユングは自分が描いたものが何か理解していなかった。

そして、彼が精神分析を行っていた、患者たちも、

時に似たような図形を書きだした。

ユングは

のちに、これが曼荼羅だと知る。

東洋のそれと、その図形は見事に似ていた。

曼荼羅は、宗教的に書かれたものは、

教義の要素を汲んだ形でかかれるが、

本当の曼荼羅は、ただのパーツなのだ。

つまり本当の曼荼羅は、世界のプログラムのソースなのだ。

私はある時から、このプログラムソースをありありとみる体験を何度となくした。

私は、それをサイケデリックアートと名付けた。笑

なぜなら、まるで電光だからだ。

最初はただただ圧倒され、驚きでしかなかったが、

最近はかなり冷静に眺めることができる様になった。

ユングは、その曼荼羅をこのように言っている。

「私の描いた曼荼羅は、日ごとに新しく私に示されていた自己の状態についての

暗号であった。それらの中に、私は自己、、すなわち、私の全存在、、が、

実際に働いているのを見た。

確かに最初はそれをうっすらとしか理解できなかったが、それらは非常に意味深く思われ、

私はそれらを貴重な真珠のように大切にした。

私はそれが何か中心的なものであるという明確な感情を抱いた。」

中心的なものであるという明確な感情。

ユングが感じたそれと、私の感じたものとが、

同じものであるかどうかはわからない。

なぜなら、いつでも、

こうしたことは、

自身の体験を持ってでしか経験できず、

それを外に表すことが困難だからだ。

どこにも客観性の無い体験だからだ。

しかし、私たちは、それでも、

やはり同じような体験をし、

自分の中にしかないようでありながら、

他人の中に同じそれを発見し、

自己という存在が、

本当に、世界のほんのちょっとの窓でしかないことを知る。

それは、ある時には「自己しかいない」と表現できるし、

ある時には「自己は点でしかない」とも表現できるのだ。

谷ちゃんの描いた幾何学。

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