私と介護と世界

私は3月から母の介護を思いっきりしている。

それまでも、かれこれ4年くらい認知症が

徐々に進む母の介護をしてきたが、

一緒に住むことはなかった。


今は、私の家で母を引き取り、

ご飯の支度から、オムツ替え、着替え、その他諸々、

行っている。

はっきりいって、かなりムカつくのだ。爆


「なんで、私がこんなことしないとならないのだろう」

「この運命はどこから降ってきたのだ」


そんな言葉が頭をよぎる。


そして、なぜ、

介護をする運命に合う人と、

介護をしない運命の人がいるのだろう、と思う。



そして、なんとなく結論めいたものを最近感じるようになった。

介護をするというのは、

私的には、「何かが間違ってる結果」だと思っている。


働き盛りの40代、50代の人間が、

そんな大切な時期に介護をする運命に合うのは、

「何かが間違っているからだ」と思っている。


たとえば、私の兄はこの介護に、ほとんど関係していない。

兄は必要な手助けはしてくれるけれども、

「自分は仕事があり、できないと決めている」ので、

彼には、その運命はやってこない。


やらないと決めている人には、

その運命はやってこない。


「やってもいいかな」、「やるかもしれないな」、

と薄々思ってた人が

それを引き受けるのだ。


この時、どうして、

「やってもいいかな、

やるかもしれない、

やらなければならないかも」と思うのだろう。


それはどこかで

パワーを持て余しているからだ。

人生を充実させてないからだ。



つまり、何か、自分の人生をやり切れてないからこそ、

介護をしなければいけない運命がやってくるのだ。

自分の力を持て余しているからこそ、

介護の運命がやってくる。


やるべきことをやってないから、

介護をしなければいけない運命がやってくる。


やるべきことから回避しようとして、

潜在意識が「介護で逃げよう」としている。


「私は、仕事できないんです。なぜなら介護あるので」

「私はこの程度しかできないんです。なぜなら介護があるので」

そんな言い訳が、無意識に存在している。

今、もし、

介護を引き受けなければならない予感がしている人は、

よくよく自問してほしい。


何か他にやるべきことがあるのに、回避しようとしていないか?と。


40代、50代の人間がするべきことは、

自分と勝負することだ。

自分の能力を社会で使うことだ。



その時代を人の世話などして、逃げようとしている自分を見つけて欲しい。


そして、そんな自分の首根っこを捕まえて


「自分と勝負しろ! 自分と世界と勝負しろ!」と言い聞かせて欲しい。

介護の根底にあるものは、

依存と甘えだ。



こんな大変な介護を抱えているんです、だから見逃してください、という

どこの誰かわからない誰かへの言い訳なのだ。


その言い訳をすぐさまやめて、


自分と世界と勝負しよう。


そう、私は心の誓ったのであります。

そう心に誓った、2020年夏の終わり。笑





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