体験記&個でありながら全体であるということ

M様の体験記です。
まず、お部屋でハーブティーを頂きながら、説明。
いざヒプノを受ける段階になったら、外の騒音が、、。集中出来ず、仕切り直し。
手順が先ほどと違い、催眠術みたいだな~と頭では考えているのだが体は脱力。
「足元を見て、踏みしめてみて」と言われて見るのだが、赤土の広野の印象、それがはっきり見えるのではなく、そんな気がする。そこにの肩ぐらいまでの黒髪青い瞳褐色の肌の粗末な木綿のワンピースのアニメ絵!?の女の子。
で、何度も妄想か空想じゃ無いの??と自分の声。これは無視するように、と事前注意があったのですが、この後何度も自問自答。
沢で水遊びのイメージ、綺麗な小石を拾っている。
その後白い広めのテントの様な家で (ここは木々があるような)焚き火には豆が鍋でグツグツ煮えている中で夕食。
おばあちゃんと大きくがっちりしたお父さん、浅黒いようだが顔は見えず、横に座っている感じ。名前は「アイヤー」と呼ばれた様な。
集落ではなく、よその人の気配はなし。
誘導でアイヤーが大人になった時に飛ぶ。35~40歳程。
森の中の家、真っ白いシーツを干す。気の質素な家。小さい子供が5人位??周りにいる。中に次男も、おおっ。私を好きだと言っている様な。
室内、白い食器。白い楕円の大きめの皿。棚に?
誘導で彼女の最期に飛ぶ。掌に赤い線の切り傷複数、周囲は黒い煙に覆われている。みんな出て行った。
故意では無い火事、「みんな幸せになってくれればいいから」との思い。
誰も知らないまま焼死。
彼女からのアドバイス、「子供は勝手に大きくなって出ていくよ」(だから大丈夫って意味??)
誘導で上へ上へと飛ぶ、白い所、守護霊?だかハイヤーセルフがいるらしい。ちょっと先に何かぴょーんぴょーんと跳ねてる、しりあがり寿ギャグ漫画でキリスト描きました、って容姿の人物??え、何これ。かなり戸惑う。
アドバイス「愛!!だよ(キラーン)」「ど~せ好きなことしかやらないでしょ」
名前が、アイーダ???思い出せない~。アイヤーさんも来て三人でハグ。
守護霊さんの去り際後ろの衣が白から上品な金に。
その時、何故かポカポンタスがライオンキングみたいな広野の崖の上から夕日に向かって腹から歌っているイメージ(もちろんアニメ)と中世っぽい街の広場のステージ上で民衆の前、金の衣をはおり?何か腹から声出してるイメージ。とても気持ちがいい。
誘導で上に上に上がり、部屋をイメージする。テレビでよく見るようなごくありふれた学生の部屋。左にベット右に勉強机(木製)。装飾なし。金の羽織ものを貰い、ベット足元脇の壁に掛ける。アイヤーさんが白い皿と、これも、と綺麗な小石をくれる。皿は机上、小石は右二段目の抽斗にしまう。
書いていると思い出して、延々と続いてしまいました。
前日、長男のことで大変ショックを受け、その日も怒りMAX状態だったので、この様なビジョンを見たのでしょうか。子供達の事は冷静になれないことが多いので(私ばかりが原因ではないと思いますが!)淡々と心静かに家事や子育てを行って行くようアドバイスされたよう感じます。
「沢山貰い物をしましたね、こうゆう場合はただではすみませんよ、頑張ってください」
のアドバイスにワクワク感を抱きました。
また入浴中、もらった石は深い緑と青のツルツルと光る石らしいイメージがありました。

ありがとうございました。
M様は、この体験記にはでてきませんでしたが、ご本人はこれからやっていきたいことも明確にお持ちで、
現在進行形でそれを行っている方なんですね。
こういう場合、ヒプノを受けた時に、ガイド様等から沢山いただきものをしてくる方が多いです。
ガイド様は私たちをすごく応援しているんですね。
自分を生かそうと思う時、ガイドさまは沢山のエネルギーを私たちに送ってきます。
それが貰い物みたいな形としてビジョンが浮かぶことが多いように感じます。
・・・・・・・・・・・・
私たちは個でありながら、全体です。
全体でありがながら、個です。
体験は個々であり、それぞれが、それぞれの生き生きとした感覚、感情をもって体験されていき、一人として同じ体験はない、ということと、全体として似たような体験をしている、ということは矛盾しているようで、矛盾していないと思う。
まずは「自分を生かしてこの人生を過ごす」ということは大切ですが、その先、「自分を生かした私」(個)が、「何の目的に向かっているのか」(全体性)ということを意識するといいのではないかと思うのです。
その両軸が必要な気がしています。
その両軸を意識して感じることが大切のように思います。
その両軸を意識できたときに初めて人は、「生き甲斐」のようなものを感じるのではないかと思うのです。
それは難しいことではありません。
例えば、「子供が欲しい」(個)という願望は、自分がこの地球に人間として生まれて、出産できるという才能を最大限に生かす、自己実現です。
その「個」の願望は、どういう「全体性」に向かうか、と考えたら、それは「私が子供を産むことで、この宇宙に最大限の貢献をする」ということだと思うのです。
自分が子供を産んだ・・というところで終えてはいけない。
それが、この世界全体のためなのだというところまで意識すべきだと思うのです。
社会全体のために宇宙全体のために子育てをするべきだと思うのです。
自分の願望で終わらせないということです。
子供を産むこと、育てることは、体験してみればわかると思うのですが、これ以上ない奉仕です。一人で修行するのとは圧倒的に違う、決定的な修行です。24時間、赤ん坊の世話をするということがどのくらい修行か、それは体験者であればわかるでしょう。ですから、子供を産んだ女性は気の入り方が違う。
でも、この子育てにはまり込んではいけない。
手は子育てしながら、頭はこの宇宙全体に貢献していくことを考えるべきではないかと思うのです。子供の肉体は親が懸命に世話するけども、この子供の精神は宇宙全体が維持し保護してくれるのだと思うといいのではないかと思うのです。
本当に人生を生かし切りたいと思ったら、自分のやりたいことをやる、自分の才能を生かす、だけで終わってはいけないということです。そこに全体性という意識が必要ではないかと思うのです。
個でありながら、全体である。
全体でありながら、個である。
それらが矛盾しない、ということを体感してみようではないか!

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