テニスのシャラポアのお父さんがなぜ、あのような過酷ともいえる環境に
自らを投げ打つことができたのか。
そこだけとれば、誰もが「そんなことはできない」と思うかもしれない。
人生に保障などなく、一寸先は闇、そういう事のが常識とされている。
だが、私はそうではないと思うのだ。
私たちは宇宙と一体になったとき、一寸先は闇などではなく
圧倒的なエネルギーに包まれる。
あなたはその経験をしたことがないだろうか。
無いならば是非するべきだ。体験してほしい。
どんなに頭がよくても、どんなにお金もちでも、
本当に偉大な業績は、あちらの力を使わねば成すことができるわけがない。
その力を昔は神といっただろう。
今の現代人は何と呼ぶのだろうか。宇宙エネルギーとでも言ったらいいのかもしれない。
神への信仰とかいうと、もう手垢がつきすぎて、
なんだか誰もが「それはもういいよ」と思うだろう。
カルト宗教による重篤な社会への脅かしもあった。
そうした経験から私たちは信仰などというのは妄想と偏狭な人々が行うことだと思うに至った。
信仰は盲目を産む。
神ということをいう時に、私は二つの問題を感じる。
それは神を信仰するとはどういうことか、ということと神を知るとはどういうことか
ということだ。この二つは違う。
まず、信仰するというのは、自分の感覚や感じたこと体験や経験は横において、「信じる」ということ。
それは、上からなんだか無理やりに自分を塗り替えるみたいな部分がある。
幸せと思わねば罪深く、人を愛さねば人ではないと言われるような
ポジティブシンキングの極みみたいな状態に人は常にいるべきだというようなことを
宗教では強要されるように思う。
キリスト教では上着を盗まれたら下着も相手にやれとか、
右の頬を叩かれたら左の頬も差し出せとか、
それでも相手を愛せとか、もう尋常じゃない。
人間には正当な怒りというものがある。
正当な場面で正当に怒らないから、あとからおかしくなり、
戦争にまで至る。言いたいことは、その場で出来る限り相手に言うべきだ。
全てポジティブに考えろとか、全くナンセンス極まりない。
信仰は知るということとは違う。
神を信仰しているからといって、神を知っているというわけではないという事だ。
神を知るというのは、神を体験することだ。
それは右の頬を叩かれたら、左の頬も差し出せなんてことは神は言わないことを知ることだ。
そうした存在ではないということを体験することだ。
神、神、というととても語弊があるというか、違和感たっぷりな感じを自分でも感じるので、
神とは言わずに、宇宙エネルギーと言おう。
こうした人知を超えた圧倒的な存在とのパイプ、これがなくては何もなせないと私は思う。
先代の人々はそうした体験を、極限の中で体験する人が多かった。
修行の極致とか、山にこもって瞑想とか、
でも、今はそんなことまでしなくても、
ヒプノやヘミシンクなどで体験することができる、と私は思う。
いや、それはあくまでも私の体験的な中で話しているので、
滝に打たれて得た霊感やら神との謁見は
ヒプノやヘミシンクで得るものとは、
きっと違うのだろうと思うけれども、私は滝に打たれたことがないので比較できない。
だが、私の経験からいって、
ヒプノやヘミシンクは、昔の人が瞑想を極めて見たという阿頼耶識の世界まで楽々入ることができる。
自分で瞑想するだけではたどり着けない境地へと人を運ぶことは確かだと思う。
先日、河童先生がブログで、エリクソンについて書いていた。
http://sarume.exblog.jp/20191709/
全ての心身の不調は意識と無意識のラポールが切れたことによってなる。
私たちの無意識の中は、時間と空間を超えている。
時間と空間を超えた世界。
それが前世であったり幼少期であったり、時間は関係ない。
時間軸というのは二極化された世界でしか感じられないものであり、
そのようなものは無意識の世界では関係がない。
そこには自分が体験したすべてがある。「いまここで」あるのだ。
しかし、その体験それぞれが、「過去」という産物に成り代わった時点で、
その体験と感覚、感情は無意識の世界に追いやられてしまい、
今の自分とリレーションしていない。関係性が切れてしまっている。
なので私たちは病気になってしまったり、バランスを失ったりする。
そうした自分という個体の中の無意識領域、つまりは自分の時間と空間を超えた自分の宇宙とのラポールを築くこと、
そうして、さらに大きな人類というような枠、もっと大きな生命体というような枠、
そこでの圧倒的な関係性の再結合が必要だと思います。
その時、私たちは一人ではないし、孤独ではない。
そことのつながりが断絶しているから、生きる意味も見いだせなくなる。
私たちは孤立し、孤独にあえぎ、他と理解しあえず、惨めな存在と化す。
しかしそこから脱するには、人とのつがなりを求めるのではなく、
はやり自分の宇宙と繋がること、まずは自分の宇宙。それは時間と空間を超えた自分というものを見出すこと。
そして、そこからさらなる大きな自己を見出す、そのことが必要なのではないかと思うのだ。