呪いの続きなのだが、(続きがあるんか)
私たちというのは、
意外といろんなもの惑わされている。
そして、いろいろな影響を常に取り込んでしまう。
今日みたテレビのニュース。いろんな報道。
その瞬間に恐怖の概念を埋め込まれ、
「ああ、自分が山に行ったら今度は筑波山も噴火するかも・・・・」
などと思ったりしたりなんかする。
例え、そう思わなかったとしても、
その影響は実は自分が考えているよりもずっと深く身体の細胞にも浸透して行っている。
意外と小さなことでも呪われているのだ。
どこまでが自分の考えで、どこからが他人の影響なのかは
その境界線を引くのは難しい。
なぜなら、人は互いに影響しながら、進化をとげているからだ。
他人の思想を前提にせずに、無から構築するのは、
この世界の全てを一度全部解体し、全否定し、
暗闇の中で、むむむむむむむぅううううと念じて、
全てを再認識するために、無になりきるということだ。
世界の全てを全否定するということは、
この言葉という概念さえ捨てるということだ。
そこまでしなければ、誰かの思想の影響を受けることを全くしないで、
何かをオリジナルで構築したとは言えないからだ。
だが、そうしたことをいちいちしていては、
進化すること自体がないかもしれないとか思うがどうだろう。
実はそうした「世界の全てを否定し言葉という概念さえ捨てる」
ことが必要がある時もあるのかもしれないし、
そういう時代が来る時もあるのかもしれないが、(え)
(なんとなく、それはわくわくする)
(そんな時があってもいいような気さえする。)
だがしかし、普通はそんなことはないのだ。
そうして私たちは、誰かが構築したなにかを元に、
その先を考える。
そして、人間はもともとそういう機能を持っている。
本能のようなところに、その機能を持っている。
だから本能的に言葉を習得することができる。
だが、それはときに、わざわいをもたらし、
そうした他人の構築したものを前提に考えようとする機能が災いをもたらす。
それが、呪いを発する人の呪いを
完全に受け入れるというような風に発動してしまうことになる。
高次な精神をもった純粋な意志から発せられた思想や感情ならば、
それはどんなに影響されても、あなたの進化を遂げる役にたつだろう。
しかし、そうではない恨みや妬み、意味不明な批判、
自己中心的な価値観からくる批判や差別であるならば、
その悪影響は計り知れない。
そうした人は、
他人に恐怖を与え、「お前はダメな奴だ」みたいな暗示をかけまくっている。
こうした人が、なんらかの発言権などあると、
その悪影響は計り知れない。
だが、こういう人をみかけたならば、「この人は呪い人なのだ」と認識するがいい。
その認識があなたを助けるはずだ。
呪い人だと認識していないと、あっという間に食われてしまう。
呪いにかかってしまう。
この人は呪い人なのだ、しょうがない奴だなと認識すれば、
その呪いは発した本人に戻るだけなのだ。
けっしてその呪いをつかんではいけない!!
そして、呪い人にやたらに近づいてはいけないのだ。
このくらいなら大丈夫と思っても、
自分を高く構築できてない人であれば、簡単に食われてしまう。
呪われてしまうのだ。
自分に自信がないうちは、近寄らないのが一番なのである。
呪われる前に自分を高く構築しなければならない。
それは意味不明な自信を持つこととは違う。
だが、自分を卑下してはいけない。
あなたは内なる魂に、
神の輝きを持つ存在だからだ!
その輝きを輝かせることが、必ずできるはずだからだ。