今日は二回目の投稿。どうしたか、自分。

自分が自分らしい自分であるには、
ある活力をもって、一定の運動としての作業をコンスタントに続けることが必要である。
それにはその状態に持っていくための方法が模索されるべきだ。
その模索なしにやる気がないとか自分らしさがわからないなどと言っても、
それは絶対に一生やる気はでないし自分らしさなど湧いてこないだろうと思われる。
そこに至るにはそれなりの踏ん張りが必要だ。
それは誰に聴いてもわからない。自分で自分に向きあって模索するべきことであり、
そのコツは何かとあえていうならば、
重箱の隅をつつくかのように、自分が今できるだろう可能性を秘めてことを全部やりつくすことだ。
その可能性を秘めたものを全部やりつくしたときに初めて、道が見える。
その作業をしないまでは決してこの道は見えない。
死ぬきでピアノの練習に励んだ人ならば、わかるであろう。
ある一曲をステージで弾いて、誰の耳にもある一定上の満足度を与えるような演奏に持っていくには、
重箱の隅をつつくような、これでもか、これでもか、どんなに上手く弾けていると思っても、
それでも隅の隅まで明かりをてらし、どんなに叩いてもホコリがたつわけで、
ありとあらゆる欠点とうまくいかないだろう可能性を全部あげて、
洗いざらい練習しないとならない。
それはすべてにいえることだ。
人生を少しでも前に進めたいと思うのならば、今できうる限りのことを
重箱の隅をつつくかのように、あらいざらいやりつくさないとならない。
それをやって初めて次のステージが見えるのだ。
それをやらない限り、ずっと次は見えない。見えているかのようにみえて、それは幻想で、
どこにも行かないどころか、後退していく。
がんばらないとか、頑張る生き方をやめるとかが流行っているが、
たしかに、不必要な頑張りは意味がない。
しかし必要な頑張りは人生の最後まで必要だ。
しかし必要な頑張りは人生の最期まで必要だ。
でなければ、我々は飲んで食うだけの生きものと化す。
その先に行きたいかどうか、それはその人の選択だ。

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