子供の頃はよく、どうやって天国に行こうかということを考えていて、
(みんなも考えたよね?)
こっそり、神様に話しかけるとかしてましたよね?
そしてそんな時にものみの塔とかが、冊子を置いていったりすると、
食い入るように見ちゃったりなんかして、
(そういう子供っていたよね?)(え?俺だけ?)
そうすると親に「これは新興宗教だから」みたいなこと言われて、
よくわからないけど、この世は難しいなと子供ながらに思ったものだった。
しかしさすがに高校生くらいになった時には、
この人生はこのままいったらヤバいんじゃないかと思った。
無信仰なままこの人生を過ごしていったら、
たぶん死んだとき絶対にヤバイのに、
なぜみんなその事に気がつかないのか?
とにかく次にブータンに生まれてくるためには、
今のうちに何とかしなければとか、(爆)
私は超真剣だった。
とにかく、このまま死んだら、絶対やばいという危機感を抱き、
なんとか死んだときに向こうで見せれるように、
聖書を書き写すという修行のようなものをはじめた。
とにかくそれをやってる限り、大丈夫だ、と思った。
冷静に考えると何が大丈夫なのか、意味不明である。爆
だが、その頃の私は大変に自分の日常の過ごし方に危機感を抱いていて、
このままでは神に見せれる自分がないと思ったのだった。
(みんなはそういう事に危機感を抱く事はないの?謎)
それは私にとっては大きな問題であり、
これ以上の大きな問題はない。
この世には、何か騙されて宗教にハマる人もいるかと思うが、
修行してないことの危機感を抱いて
一人で独自に宗教にハマる人もいるのだ。爆爆
書きうつす修行といっても、
聖書の福音書はそんなに量はない。
マタイの福音書、マルコの福音書、どれでもいい。どれも基本は同じだ。
一つの福音書自体はそれほどの量はない。
福音書の中でキリストはいう。
「明日の朝、お前は三回、わたしを知らないというだろう」
それを聞いて、ペテロは、そんなことはありません!という。
しかしペテロは尋問にあい、
「私はあの男をしらない」と言ってしまう。
そして、キリストに言われたことを思い出して、一人、むせび泣くのだ。
泣き続けるのだ。
私はいつもそこを読んでは泣いた。
ペテロと一緒に泣いた。
わたしたちは、どのくらい霊性に生きる事ができるだろう。
どのくらい真実に根差して生きれるだろう。
真理を裏切らず、誠実に生きれるだろう。
どうしたら、真実だけで生きられるだろうか。
若かった私はその後、インドにどっぷりのめり込んでいった。
本気で信仰しなければ、神の「か」の字も知る事はない。
知っているつもりで、何も知ることはない。
そしてわたしたちは、
にわとりが二度鳴く前に、三度も、キリストを知らないというのだ。
ドラゴンヘッドがICに合の私は、
基本は引きこもりたいかもしれないなと思う。
引きこもって、
あの、赤くて青い、白くて黒い、原色の、
原色の意識の底で遊んでいたいとも思う。
しかしその後、私は信仰しきった生活から、
この生活の全てがだめだと思ったのだった。
あのときの信念体系の崩壊は激しかった。
全てを自分に取り戻すのに10年かかった。
わたしたちはキリストを知らないという生活から、
知っているといえるようになり、
知っているけれども、知らないと言えないといけない。
ここにも守破離の法則は成り立ってるのだと思う。
それは青くて赤い道だ。
もと来た道を何度もなぞりながら、
螺旋をえがいていく道なのだ。
それは、霊的バトンをしながら、
生まれながら、死にながら、
生まれ変わりながら、
のんびりしているようで、命がけの。
ヒエログリフ パンと神酒の乗った供物台