「子供がどうして虐待されるのか!? なんで子供が放置されるのか!? なんで子供が大事にされないのか!?全ては、子供の幸せに対する無責任から来ています。
あらゆる問題は「幸せに対する無責任」というところから来ているんです。
我々治療、修行するものが受持しなければ、人の幸せに責任を持たなければ、そもそも治療も修行も成り立ちません。
受持し、責任を持つ人がいなかったら、法も無いし、修行も無い。文化も無いし、そもそも人間関係が成立しない。相手の幸せに無責任な人間関係は、ウソの関わりでしかない。」
昨日、こんな記事をシェアされてた方がいて、
ほんとそうだなと思いました。
私は、人の幸せに責任って、あんまりないと思うのですが、
自分が幸せになる責任ってあると思うのです。
そして、その自分が、拡大している人は、
自分がそもそも個人ではなくなると思うのです。
自分という感覚が、小さい人は、その自分が自分でしかありません。
でも自分という感覚が拡大している人は、
沢山の人を含んで、それが「自分」だと思うのですね。
セラピスト業とかする方は、この自己が拡大していなければ、
携われない仕事だと思います。
国家の王は国全体が自分ですよね。
そして自分が幸せになる責任のもとに采配していると思います。
宮沢賢治が
「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸せはありえない」と言ったその意味は、
宮沢賢治という人間が世界全体という枠で自分を感じていたということだと思います。
世界全体=自分なのですから、
世界全体が幸福じゃない=自分は幸福じゃない
とても単純な図式です。
なので、人の幸せに責任はないですが、自分の幸せに責任があります。
そして、どこまでを「自分」と考えるかで、
自分の生きるステージの範囲が変わるのだと思います。
吉岡秀人さんが、こう言っていました。
「ミャンマーの小さな少女が、親がエイズとかで無くなると、
保護してくれる大人がいなくなり、その子は売春宿に売られていく。
それを目の当たりにしたときに、心情的に耐えられない。
その現実に、心情的に耐えられないんです。
あなたの目の前に12歳くらいの女の子がいて、親を亡くした小さな女の子がいて、
その子が明日、売春宿につれていかれると知ったら、それに耐えられますか?」と。
私も、その現実に耐えられないと思います。
自己が拡大していれば、
小さな子供が、一人で家で待ってるとか、
それすら耐えられません。
私は、こうしてヒプノセラピストの仕事をしていますが、
仕事は基本的に平日は10時~14時までしか入れません。
それ以上はしないのです。
なぜなら、小学生の子供がいるからです。
私は子供が帰宅したときに親がいないということにも耐えられないです。
だから10時から14時の間に仕事。
それでも充分に活動はできます。
私、私、私、私、と私ばかりを主張する人に、
地球や宇宙を考える範囲はないと思います。
自分という範囲が、本当に小さな自己にしかないからです。
多くの場合、そうした人は、
小さな自分の幸せは一生懸命得ようと頑張っているけれども、
家族の幸せに責任を持っていません。
「自分」という認識が、
小さな自己から、ほんの少しも拡大していないのに、
どうして地球や宇宙のことが考えられるでしょう。
誰もが自分が幸せになる責任があって、
その「自分」の範囲を広げていくといいのではないかなと思った次第です。
コメント
そうですよね。
家族が幸せじゃなかったら自分は幸せじゃないのって、家族が自分の中に入っているからなんですね。他人を幸せにするという考え方は傲慢ですきではなかったけれど、目の前にいるかわいそうな子供を見ていられないのはすでにその子のことが拡大した自分の中に入ってしまうからなのですね。自分の幸せに責任を持つ、って座右の銘になります。それが自分と縁を結んだ人や動物たちの幸せにもかかわっていくことになる。
すごくすごく腑に落ちました。
ありがとうございました!