何か透明なものに向かって生きる

何か透明なものに向かって生きる

ベトナムから帰国後、嘔吐下痢&発熱&頭痛&関節痛に苦しみ、
昨日はあまりのつらさに、ぶつぶつと独り言をいい、
いろんな事を考えては泣いた。
家族はそんな私をみて「精神状態危ない」とゲラゲラ笑っていた。

そして、極めつけは、この動画で↓

精神状態ヤバい時にこの動画はキタ。
なんて美しいのだ!
感動して号泣した。

そして私は芸術家だったはずだと、はずだったと、思い返したのだった。

自分は芸術家だったはずだという認識はこの仕事についてから
何度も何度も、押し寄せては消え、寄せては返す波のように、
時々現れては私は酷い郷愁に襲われ、
どこへ手放してしまったのだろうかと思ったり、
いやいや、別にどこにも手放してないし、ここにあるではないかと思ったり。

芸術家というのは、いつでも、どこでも、なにか透明なものにむかって生きているのだ。

何かの役にたつとか、誰かのためになるとかは副次的なものでしかなく、
何の役にもたたなくてよく、ひたすら自己と神とのために生きる。

それが芸術家というものなのだ。

そう、私は芸術家だったのだ。

この原点を私はずっと持っていたい。

人は、人のためには生きないといいながらも、人のために生きる。

本当に自己のために生きられる人は、
きっと他人を助けることもできるだろう。

人を助けることをやめた人が、なにかとても感じ悪く、
人を助けられる人のが美しく感じるのは、

実は最終的な結果を先取りしているからなのだと思う。

先日読んでいた本に
「人のために生きるのをやめたら、本当に人生が面白くなってきました」
という記述があった。

真実なのだと思う。

まずはこのステップを踏まないとならない。

演奏でもそうだ。
「先生の指示でこう弾けと言われたから」
という理由で演奏しているうちは、本当につまらない。
なにか演奏している気持ちになれない。

「人のために演奏するのをやめたら、本当に演奏が面白くなる」

こう言い換えると、芸術家には意味がとてもわかるだろう。

自分の心のひだひだに届くように演奏すれば、本当に演奏は面白い。
そして、そこからが本当の意味での芸術家への道が始まるのだと思う。
先生にいわれたように弾いているうちは、「それまで」なのだ。

ただ、人はやはり一人では生きていなくて、
あなたにその芸術を教えたのは先生だし、

そして、本当に面白いと思えるには、やはり聴衆が必要だったりする。

ここがいろんな意味でトリックである。

人のために生きるのをやめたら人生が面白くなる。

これは真実だと思うが、

それでもやはり、人は人のために生きるのだと思う。
なぜなら、人のためにならないことはやはり面白くないのだ。

自己と他人とはいつも曖昧で、
私はあなたで、あなたは私であるのだから、
自分ためも、他人のためも、実はあまり区別ができないものなのだと思う。

人は、自己と他との、いつでもその狭間を生き続けるのだと思う。

自分のために生きないと人生は面白くない。

そして他人のためにならないと人生は面白くない。

この二つは切っても切り離せない。

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