こんなに幸せでどうしよう!

私は子供の頃、あまりに幸せで

「こんなに幸せでどうしよう。神様ありがとう」といって

よく、ひとりで泣いた。

部屋でひとりで泣くのだ。

「優しい母と立派な父の元に生まれて、本当に幸せだ」と思って泣いた。

10代になったとき、

手塚治虫のブッダとか、新約聖書などを読むようになった時に、

「自分はこんなに幸せで、ここでぼーっとしていてはいけないような気がする。

世界に何か恩返しのようなものをしなくちゃいけないのではないか。」

と思うようになった。

しかし、何をどうしていいか、皆目見当がつかず、

謎にその頃は、新約聖書の写経をやっていた。笑

なんか、それしか、やりようがなかったのだった。

20代の初め頃は、瞑想に興味を持ち、

マハリシ研究所のTM瞑想などに通った。

その瞑想初期の頃の、全能感はすごいものがあった。

よく、禅のお坊さんが、遠くで落ちた葉っぱの事までわかる、みたな比喩があるが、

あれは誇張ではない。

私はこんな経験をした。

ある時、渋谷で友達といて、その友達と渋谷でうっかりはぐれた。

休日の渋谷ではぐれたら、どこにいるか探すのはムリだと思われる。

歩道はいっぱいに人だらけだし、どの道も人だらけ。

人で渋滞の状態。

ここではぐれてしまうと、携帯の無い時代、再び出会うのはムリと思われた。

しかし、その頃は瞑想をバリバリやっていたので全能感がすごくて、

不思議と、どこにいるかがハッキリとわかった。

「ここの道を曲がって、あのあたりにいる、」

とわかるのだ。

意識を向けると、確信のようにはっきりとそれがわかるのだ。

そして、そのとおりに、友人はそこにいた。

瞑想は、この状態をキープできるか、というと、

わりと不思議にキープできないと思う。

私の経験からいって、キープできない。

そうして、辞めてく人も多いような気がする。

飽きてくるというか、、謎にキープはできないのだ。

まあ、そうした全能感は、ずっと必要かというと、

必要ないのだろうと思う。

私たちは全てをいつもわかる必要はないのだ。

その後私は、「こんなに幸せでどうしたらいいか」という

子どもの頃からの問いへの答えをもとめて、

インドのヨギの元を訪ねるようになった。

この世の仕組み。

世界の仕組み。

そうして私はどう生きるべきなのか。

こんなに幸せな私はどうしたらいいのか。

この持て余す幸福感をどうしたら世界に広げることができるのか。

私はインドのアシュラムに行き、ヨギのもとに尋ねていった。

「奉仕しなさい」

師は言われた。

そうか!奉仕するのか!

私はそこから、病院での奉仕活動、

ホームレスの人への炊き出しなどに、奔走するようになった。

つづく(かもしれない)

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